|
天文6年(1537)織田信秀の足軽・木下弥右衛門を父に、百姓の娘なかを母として生まれる。天文二十年(1551)元服の年に家を出て、行商ののち織田信長に仕える。
永禄四年(1561)浅野長勝の養女ねねと結婚し、木下藤吉郎と名乗った。天正元年(1573)に浅井氏の旧領十八万石を与えられ、羽柴姓を名乗る。次いで近江長浜城主となる。信長の天下統一事業が西国に及ぶと、各地を転戦した。
天正十年(1582)、備中高松城を水責めにしている時に本能寺の変が起きたが、和睦を結ぶと軍を返し、山崎の合戦で明智光秀を討つ。信長の天下統一の後継者となった。続いて天正十一年(1583)賎ケ岳の戦で柴田勝家、織田信孝、滝川一益を破って天下制覇の基礎を固めた。天正十三年(1585)一宮城の戦いで勝利し四国平定、天正十五年(1587)九州征伐に出陣し九州を平定。天正十八年(1590)小田原城攻めなどに勝利し北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して全国統一を成し遂げた。
天正十一年(1583)に大坂城を築き、天正十三年(1585)に関白、翌年には太政大臣、豊臣の姓を賜った。天正十五年(1587)聚楽第が完成し北野大茶湯を催して世間を驚かせた。
「太閤検地」「刀狩り令」を行ったりさらに貨幣の鋳造、関所の撤廃、商工業の発展を妨げる座を廃止して楽市楽座を促進し、豪商を保護して朱印船貿易にも意を注いだ。
文禄元2年、慶長2年と、2回に渡って朝鮮に出兵(文禄の役及び慶長の役)するが、水軍の不振や明の援軍、また朝鮮各地の義勇軍の活躍などで失敗に終わった。
慶長三年(1598)三月の醍醐の花見の頃より、体調をくずした秀吉は、五月に倒れると日増しに衰弱していった。その頃には秀吉の気がかりは秀頼の行く末だけになっていた。
七月十五日、伏見城に諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う起清文を書かせると、八月五日にも病床に徳川家康、前田利家、毛利輝元、字書多秀家、小早川隆景の五大老を呼んで、「返すがえす秀吉の事たのみ申し條、五人の衆たのみ申すべく候」と遺書を残している。
八月九日、朝鮮からの撤兵を遺言したのち昏睡状態となり、十八日に投した。「露と落ち露と消えにし我身かな 難破のことも夢のまた夢」。″天下人″秀吉の、辞世の歌である。63歳。 |