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○2009年
○時代/戦国時代
○原作/原作:火坂雅志『天地人』
○脚本/小松江里子
○出演/
直江兼続(妻夫木聡、少年時代:加藤清史郎)/樋口惣右衛門(高嶋政伸)/お藤(田中美佐子)/お船(常盤貴子)/直江景綱(宍戸錠)/妙椿尼(萬田久子)/直江信綱(山下真司)/直江勝吉(黄川田将也)/お悠(吉瀬美智子)/直江景明(加藤清史郎)/お松(逢沢りな)/お梅(並木瑠璃)/大国実頼(小泉孝太郎)/お栄(小沢真珠)/上杉景勝(北村一輝、少年時代:溝口琢矢)/上杉謙信(阿部寛)/仙桃院(高島礼子)/菊姫(比嘉愛未)/上杉景虎(玉山鉄二)/華姫(相武紗季)/道満丸(村山謙太)/泉沢久秀(東幹久)/お慶(国分佐智子)/栗林政頼(平泉成)/安部政吉(葛山信吾)/深沢利重(鈴木正幸)/甘糟景継(パパイヤ鈴木)/桜井晴吉(松尾諭)/吉江宗信(山本圭)/北条高広(新井康弘)/柿崎晴家(角田信朗)/宇佐美定満(真木仁)/刈安兵庫(三池崇史)/池上彦五郎(松原正隆)/豊臣秀吉(笹野高史)/北政所(富司純子)/淀(深田恭子)/豊臣秀次(眞島秀和)/鶴松(池澤功貢)/豊臣秀頼(中村倫也)/石田三成(小栗旬)/島左近(若林豪)/前田利家(宇津井健)/福島正則(石原良純)/徳川家康(松方弘樹)/徳川秀忠(中川晃教)/朝日姫(平田敦子)/本多正信(松山政路)/本多正純(蟹江一平)/遠山康光(螢雪次朗)/織田信長(吉川晃司)/明智光秀(鶴見辰吾)/武田勝頼(市川笑也)/高坂弾正昌信(大出俊)/初音(長澤まさみ)/真田幸村(城田優)/真田昌幸(岩松了)/北条氏政(伊吹吾郎)/毛利輝元(中尾彬)/小早川秀秋(上地雄輔)/伊達政宗(松田龍平)/北高全祝(加藤武)/千利休(神山繁)/お涼(木村佳乃)ほか |
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第一回 「天」の章
永禄7年(1564年)越後・上田庄で起きた事件がきっかけで、上杉輝虎(後の謙信)が10歳の長尾喜平次(後の景勝)と対面。その年の秋、輝虎は喜平次を狩に連れだし自らの養子にすると伝える。そして喜平次は坂戸にある寺・雲洞庵で、侍としての修業を始める。一方、5歳の樋口与六(後の兼続)は将来、喜平次の家臣になるため、親元から離れ、同じ雲洞庵での生活を始めるのであった。
ある夜、与六はさみしさから実家を目指し雪の中、雲洞庵から抜け出す。気づいた喜平次は後を追う。何とか実家にたどり着いた与六だったが、母・お藤に追い返される。喜平次はそんな与六に「母上はお主を捨てたのでない。この喜平次にくだされたのだ。わしの側にいてくれ」と語りかける。この温かい言葉にむせび泣く与六。与六と喜平次の心が通った瞬間だった。
天正2年(1574年)5月、兼続は上杉家の使者の一行に加わり織田信長のいる岐阜城を訪れる。初音の手助けで、信長に会う兼続。信長に義の精神をぶつけるが、信長は古くさい考えと一蹴、秀吉に密かに兼続を殺すよう命じる。その兼続の危機を救ったのは、のちの石田三成こと佐吉だった。
天正6年(1578)3月、関東出陣を目前に控えた時、突然上杉謙信が病に倒れる。兼続は謙信の看病を申し出る。しかし、必死の看病にも関わらず容態は回復せず、ついに謙信は、兼続に「そなたの義」とひと言だけ残して息を引き取る。謙信は遺言を残さなかったため、上杉家は家督を巡って景勝派と景虎派に分かれ大混乱に陥る。それを見かねた妙椿尼は、謙信が「家督は景勝に」と遺言を残した、と嘘をつく。 |
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第二回 「地」の章
景勝派と景虎派との戦いは当初、景勝軍の優位に展開する。景虎軍は状況を打開するため、御館へ陣を移す。長引く戦で景勝らの春日山城の兵糧が尽きかけていた。一方、景虎のもとには、実兄、北条氏政より援軍を知らせる書状が届いていた。さらに、武田が景虎に加勢し、越後と信州の国境まで迫っていた。その苦境に対し兼続は、長年の宿敵である武田との和ぼくを成功させる。景虎には降伏を促すが、景勝はやむをえず御館へ総攻撃を仕掛けることに。景虎は華姫とともに逃げるが、追いつめられ自害。
兼続の家老出世を快く思わない毛利秀広は、信綱、山崎専柳斎と口論になり、二人をきり殺してしまう。その信綱の代わりに直江家を継ぐように言われ戸惑う兼続だったが、上杉家のため、主命だというその言葉に従う。天正9年(1581年)、兼続はお船の夫として直江家に婿入りし、直江兼続となる。
一方、信長の軍勢は、着々と越後を包囲しつつあった。信長の軍勢に包囲された越中・魚津城では吉江、安部らが必死に防戦していた。兼続は魚津城本丸に乗り込み、ろう城組に降伏するよう説得する。しかし、吉江も安部も上杉の侍として武士道を貫きたい、と拒否。兼続に上杉の未来を託して城に残る。兼続と景勝は吉江らの思いを胸に、急ぎ越後に引き返すのだった。
一方、京では、明智光秀が謀反を起こし、本能寺にいる信長を急襲。信長はその生涯を閉じる。そのころ、魚津城は総攻撃をかけられ、ついに陥落。上杉軍にも緊張が走るが、織田軍は次々と撤退、ほどなく越後にも本能寺の変の知らせが届く。しかし、すでにそのころ、光秀は備中より京にとって返した秀吉に討たれていた。 |
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第三回 「人」の章
光秀を討った秀吉は、信長の嫡孫・三法師を跡継ぎに推し、その後見として主導権を掌握。そして賤ヶ岳の戦いでライバルの柴田勝家を討ち果たし、関白に就任した。天正13年(1585年)本能寺の変からわずか3年後のことだった。
やがて、春日山城に秀吉の使者が来た。景勝との会見を望み、秀吉自ら越後まで出向くという。落水での会見の日。秀吉は三成を伴って会見の場に現れる。会見は景勝、兼続、秀吉、三成の4人のみで行われた。一言も話さない景勝は、逆に威圧感を与え、会見は順調に進む。やがて兼続たちの読み通り、秀吉は上洛を求めてきた。兼続は拒もうとするが、景勝は上洛を約束する。
春日山に真田の使者として初音が来る。徳川の脅威から真田を守るため、盟約を結んでほしいと申し出る。ほどなくして真田から人質が来る。若き真田幸村だった。
上洛の日が迫るころ、兼続は自分の義にふさわしい言葉を探していた。お船は最初に考えた「愛」の文字がよいと助言する。仁愛の愛、越後の民を愛する思いが自らの力の源であると兼続も納得し、「愛」の文字を兜の前立てにあしらう。上田衆たちは面食らうが景勝は兼続にふさわしいと励ます。
天正14年(1586年)5月、景勝率いる上杉軍4千は上洛の途についた。兼続は景勝につき従い、大坂城で開かれた秀吉の茶会に出席。秀吉は満座の中で兼続を自らの家臣にしようと砂金の山を積むが、兼続は自らの主は景勝以外にいないとその誘いを突っぱねる。
慶長2年(1597年)9月、兼続は三成に内密に呼ばれる。そこには秀吉が病に伏していた。秀吉は上杉に会津へ国替えしてほしいと頼む。日本の安泰を期すべき、という兼続の言葉に、景勝は国替えを決断する。 |
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第四回 「愛」の章
慶長3年(1598年)8月、秀吉は利家に後事を託し、三成らにみとられ亡くなる。
慶長5年(1600年)、会津に戻った兼続は領内の整備を進めていた。そんな中、謙信公の23回忌法要が営まれる。参列した仙桃院は、春日山城主の堀秀治が上杉の謀反を疑っている、と告げる。家康から書状が届く。そこには上杉に謀反の疑いがあるから上洛せよ、とあった。景勝と兼続は、返書にて潔白を示し、家康の理不尽さをただすことにする。兼続は渾身の思いで書状をしたため、家康に送りつける。世に言う「直江状」である。書状を読んだ家康は激しく怒り、諸将を集めて上杉討伐に向かう。一方、兼続は会津の南、白河の革籠原(かわごはら)に巨大な防塁を築く。敵軍をここに誘い込み一気に叩く作戦だ。兼続は上田衆に、この戦は義の国を築くための最後の試練、と告げる。
三成は知略にたけた盟友・大谷吉継にともに立つことを求める。そして、毛利輝元を総大将として大坂城へ入り、秀頼を奉じ、家康討伐のため挙兵する。知らせを受けた家康は、三成を討つため大坂へと引き返す。兼続は、家康を挟み撃ちにする絶好の機会と景勝に進言。しかし、景勝は敵を背後から討つのは義に背く、と応じない。
9月15日、関ヶ原で両軍が激突、奥羽でも上杉が長谷堂城攻めを開始する。秀秋が動かないことを不審に思った三成は自ら秀秋の陣に出向き説得。だが、すでに秀秋は家康から寝返えるよう持ちかけられていた。態度を決めない秀秋の陣に、家康は鉄砲を撃ち込む。驚いた秀秋は西軍を攻め始める。かくして、西軍は総崩れとなり、島左近が自ら犠牲となって三成を逃がすも生け捕られ斬首。西軍敗退の知らせを受けた兼続は長谷堂城攻めから兵を引く。しんがりを務めて必死に応戦する兼続の脳裏に、三成の姿が浮かんでいた。
景勝と兼続も家康の命により上洛。兼続は本多正信のもとを訪れ、上杉存続をかけて直江家の家督を譲ると申し出る。嫡男・竹松のことを思い反対するお船に、兼続は上杉を残すために、苦しみは自分が一身に引き受けなければならない、と苦しい胸の内を明かす。
景勝と兼続は家康に謁見。家康は謝罪を求めるが、兼続と景勝は義は我らにあり、と拒否する。一方、福島正則は小早川秀秋に上杉を助けるよう持ちかける。責任を感じている秀秋は、淀に上杉を救って欲しいと申し出る。
結果、上杉は米沢30万石へ移封となり、お家断絶は免れる。兼続は米沢への移住の準備のため、会津へ戻る。動揺する家臣たちに、兼続は殿を信じてついてくる者はすべて面倒をみる、と告げる。
慶長19年(1614年)11月、「大坂冬の陣」の火ぶたが切られ、幸村ら浪人諸将は大坂城に集結。大坂城を攻めあぐねた家康は外堀を埋めることを条件に和議を結ぶ。兼続は幸村にひそかに呼び出され酒を酌み交わす。もはや豊臣に勝ち目はないとする幸村は、兼続にこれまでの礼を述べる。別れ際、兼続は幸村に千姫を助けてほしいと頼む。その後、家康は城を明け渡すよう豊臣に要求するが、淀はこれを拒否、「大坂夏の陣」となる。徳川の攻撃により、ついに大坂城は落城。千姫も救出される。
景勝と兼続は米沢へ戻る。米沢は兼続の改革が功を奏し、しだいに活気づいてきていた。竹松から名を改めた景明ら若い家臣たちは藩の財を高めようと改革案を練るが、その場で景明が病に倒れる。兼続とお船の看病のかいなく、景明は息をひきとる。
翌年、年老いた家康は兼続と政宗を呼び、秀忠の指南役になってほしいと頼む。家康の子を思う心に感じいった兼続は、これを引き受ける。家康が息をひきとり、兼続は秀忠の指南役として江戸城に入る。兼続は徳川の若い家臣たちにせがまれ、戦国の英傑たちの話を聞かせる。
やがて、兼続は私財を投じ、米沢初の学問所となる「禅林文庫」を創設し、政から身をひく。そして、江戸へ向かった兼続はお船と再会し、二人で越後へ旅に出る。懐かしい景色に感慨無量となる二人は、ともに夫婦として幸せだったことを確かめ合う。 |
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