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天文三年(1534)尾張守護代織田家に生まれた。天文二十年(1551)父・信秀の急逝後、永禄二年(1559)尾張を統一、永禄三年、西上する今川義元を桶狭間の戦で破り、天下統一の夢に戦い続ける。永禄五年(1562)岡崎の徳川家康と同盟して背後を安定させ、上洛を目指した。
永禄十年(1567)斎藤竜興を破って美濃を征服、井之口を岐阜と改称し、ここを拠点とした。また、この頃「天下布武」の印を使用し始めた。永禄十一年足利義昭を擁して上洛し室町幕府を再興、実質的な畿内支配を実現した。
元亀元年(1570)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り、ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し、天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍義昭の失政を責め、天正元年(1573)ついに幕府を倒し、宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし、翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧、天正三年(1575)には長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲の威力を示し、また丹波・丹後の征服を開始、越前の一向一揆を鎮定し、専制支配体制を固めた。
天正四年(1576)近江に安土城を築き、翌年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。一方、足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し、松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。天正六年、紀伊雑賀を圧迫し、翌年鉄甲船によって毛利水軍を破った。上杉謙信も天正六年(1578)病没し、荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は天正九年ついに屈服し、加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。
天正十年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入、武田勝頼を破った。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ、6月中国征伐の指示を与えるため上洛。
六月二日早朝、信長は、中国攻めを命じた明智光秀の謀叛により、滞在先の京都本能寺で襲われた。洗面中、時ならぬ喚声を開いた信長は、寝間着姿のまま弓と槍をとつて、小姓の森蘭丸らわずかな手勢で応戦したが、かなわず、みずから寺に火を放ち、自刃して果てた。
死に際して、出陣前にかならず舞ったという幸若舞『敦盛』の一節、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻 の如くなり。一度生を得て、減せぬ者のあるべきか」を吟じたという。本能寺に宿泊したところを明智光秀に襲われ、49歳の生涯を閉じた。
信長は茶の湯の愛好者として知られるが、茶会を通じて堺や博多の豪商と接し、家臣には茶器を与え、茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど、茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。 |