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龍馬は天保六年(1835)一月十五日、高知県の郷士の二男として生まれた。郷士とは武士の下で差別が甚だしかった。
嘉永六年(1853)龍馬は江戸へ出て、神田お玉ヶ池の千葉道場に入門し、尊攘志士として育っていった。ペリーが来航した時、品川の海岸警備につき、初めて海外というものに目を向ける。そして、攘夷思想に染まり、佐久間象山を訪ねて、洋式砲術を学ぶ。
文久元年(1861)武市瑞山が土佐勤王党を結成しこれに加わる。藩による弾圧にあい、だが海外情勢を知っていた龍馬は、彼らとは相容れないものがあった。とくに吉田東洋の暗殺であり、その2週間前の文久二年(1862)に脱藩して九州に渡った。そして三度目の江戸入りで、千葉道場の千葉重太郎に誘われ幕府の重臣・勝海舟を殺害に向かうが、勝の開国と近代海軍必要の説をきかれせて心服、門弟となっている。
文久三年(1863)勝の要求で幕府の神戸海軍操練所が創設されると、龍馬は勝の片腕となって活躍した。同志とともに薩摩藩を頼った。やがて、長崎に移り、長崎の亀山に浪人結社として亀山社中をつくる。そこでグラバーらと取り引きして、武器や軍艦を輸入し、利益をあげながら、禁門の変以来、犬猿の仲となっている薩摩と長州を結び付けるための政治活動に積極的に取組んでいく。
慶応二年(1866)薩摩にあった龍馬は中岡慎太郎と共に薩長同盟を実現させた。翌三年、土佐藩は龍馬の脱藩を許し、龍馬の率いる海軍組織を海援隊としてした。
「船中八策」は、慶応三年(1867)六月、龍馬が長崎から京へ向かう船の中で起草した。新国家体制についての八力条の構想である。これを後藤象二郎に示した龍馬のねらいは、この構想実現のために土佐藩を利用することにあった。「船中八策」を示して後藤−山内客堂を動かした坂本龍馬こそ、大政奉還の陰の立て役者といえよう。そして龍馬は単に大政奉還にのみあったのではなく、そのあとの近代的中央政府の樹立にあった。武力を用いず実現できればそれにこしたことはない、というのが龍馬の立場であり、必要とあれば武力討幕に出るつもりでもあった。
同年十一月十五日、龍馬の下宿先京都河原町の近江屋の二階で中岡の来訪を受けた。激しい議論をしている最中、七名の男に襲われ殺害された。33歳であった。 |