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文久三年(1863)三月、京都守護職の会津藩主松平容保お預かりということで、新撰組(壬生浪士組) は誕生した。以後、新撰組は守護職配下の特別警察隊として、京都市中の治安維持のために働いた。
同志を統率する局長(隊長)には、近藤勇と芹沢鴨の二人が就任し、土方歳三、山南敬助、ほかに芹沢派の新見錦が副長となった。隊士も新規に募集され、五〇人ほどの陣容が整えられた。
はじめ郷土八木源之丞家を屯所としていたが、人数の増加にともない、前川荘司家や南部亀次郎家も占拠して使用するようになった。壬生村に本拠を置いたので壬生浪士組と名乗ったが、この年八月十八日の政変における働きが認められ、十九日に朝廷より新選組という隊名が与えられた。
隊の象徴ともいうべき隊旗には、赤地に白く「誠」の一字を染め抜き、彼らの偽りのない心が表された。また、制服としてつくられた浅葱色の羽織には、忠臣蔵の芝居の装束のように、袖とすその部分に白い山形模様をあしらった。武士の鑑である赤穂義士にあやかろうとしたものだった。
近藤も土方も、もともと武士ではなく農民の出身であったから、武士にあこがれる気持ちは人一倍強く、みずからに対しても、隊士たちに村しても、真の武士であることを求めようとした。そうしてつくられたのが、俗に局中法度と呼ばれる隊規だつた。
一、士道を背くこと
二、局を脱すること
三、勝手に金策をいたすこと
四、勝手に訴訟を取り扱うこと
この四か条を背くときは切腹を申しつくること
条文には異説があるが、永倉新八の回想録ではこの四か条になっている。逆反者はすべて切腹という、まれにみる厳しい隊規である。この隊規によって、隊士たちはふるいにかけられ、近藤、土方の求める精鋭だけが残っていくことになる。
しかし局長の芹沢は酒癖が悪く、行動に問題の多い人物であった。商家からの押し借りや遊郭での乱暴など、京都市民に迷惑をかける事件が続いた。そこで近藤らは芹沢派の処分を決断。手始めに腹心の新見を粛正し、九月一八日、終宴後に屯所で泥水している芹沢を暗殺した。この結果、芹沢派は一掃され実権は近藤派が把握した。
元治元年(1864)の池田屋事件で一躍、新撰組の名を高めることになった。
その後、討幕派が盛り返し、薩長同盟が結ばれ、慶応三年の王政復古の大号令が行われることで新撰組の存在意義を失った。続いての鳥羽伏見の戦いでも惨敗し、江戸に敗走した。
隊長の近藤は江戸で捕まり斬首。副長の土方は羽織、袴、まげも捨て、軍服に身をつつみ近代戦争の指揮官として戦い、函館戦争で敗れ戦死した。 |