勝海舟 (1823〜99) 幕臣

勝海舟  江戸本所亀沢町に勝小吉の子として生まれる。7歳の時、勝甚三郎の養子となり、その娘のお信と許婚になる。また、従兄弟の男谷信友から剣術を習い、その弟子の島田虎之助を剣の師匠とする。15歳で目録、21歳で免許皆伝となる。またこの間、島田虎之助に勧められ、蘭学と西洋式兵術を学ぶ。
 1850年、赤坂で蘭学塾を開き、蘭学を教える傍ら、佐久間象山の元で砲術を学ぶ。この時、佐久間が贈ってくれた「海舟書屋」という額を気に入り、「海舟」を名乗るようになる。また、後に佐久間象山の妹を妻とする。1853年、ペリーが来航すると阿部正弘が広く意見を求めたのに応じ、海軍の創設を説き、人材登用・育成をすべきとの内容の上申書を提出する。1855年、長崎に海軍伝習所を開設し、伝習生監督の職に就く。1859年、江戸に戻り、講武所内に創設された軍艦教授所の教授方頭取となる。
 1860年正月に日本で初めて太平洋を横断しアメリカへ出航した咸臨丸の艦長をつとめる。2月15日、サンフランシスコに着いた一行は、非常な歓迎を受けた。3月19日に出港、ハワイに寄港して5月5日に帰国した。
 1861年、講武所砲術師範役になった海舟は、軍艦奉行という位置についた。当時はまだ攘夷論がさかんであったが、その手段としては、海岸に砲台を築け、という意見がよかった。これに対して、海舟はむしろ海軍の拡張策を唱え、遂に、1864年、神戸に海軍操練所を設けることに成功した。塾頭は坂本竜馬であり、塾生も幕臣の子弟より西南諸藩の青年が多く、陸奥宗光や伊東祐亨らも学んでいる。しかし、幕政批判する塾生らが集まっており、幕府が放っておくはずもなく、海舟は軍艦奉行を解雇させられ、神戸海軍操練所も閉鎖させられ、約1年半の謹慎の身となる。
 ところが、1866年に始まった第二次長州征伐が始まると、ふたたび海舟を軍艦奉行に任命。戦況が思わしくなく、幕府は長州との交渉に当たらせ、決死の思いで長州の井上馨らと協議した。
 その後、海舟は徳川慶喜に大政奉還をすすめ、また、西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を成功させ江戸を戦火から守った。維新後は海軍卿、枢密顧問官などをつめて、明治三十二年に亡くなる。享年77歳。

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