毛利元就(1497〜1571)

毛利元就   安芸国高田郡、郡山城山の毛利弘元の次男として、明応六年(一四九七)に生まれた。幼少期から青年期にかけての境遇は、決して恵まれたものではなく、5歳で母と死別。11歳のときは父を失った。以後、元就は家来筋にあたる井上一族の庇護のもと過ごすが、家来同然の扱いを受けた。27歳のときに兄興元の死後、その子幸松丸も9歳で死去。異母弟の元綱と家督を争い攻め殺し、毛利家の当主となった。そして天文一九年(1550)に井上一族への粛正を断行した。
 天文九年(1540)には安芸郡山城の合戦で天下にその名を轟かせ、弘治元年(1555)厳島の合戦に勝利を収め、永禄八年(1565)の月山富田城を陥落させ”中国の覇者”となった。
安芸の一家族から身を起こし、中国10か国の領主となった毛利元就は、死ぬまで戦いに明け暮れ、元亀二年(1571)、孫の輝元が出雲平定に向かっている最中に病没した。
 弘治三年(1557)、嫡男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の三人の息子に遺訓を与えたが、その一節に、「三人の内、少しにても欠け隔て候わば、ただ三人御滅亡と思召さるべく候」と、兄弟の一致団結を説いた。一本の矢は折れやすいが、三本束ねると折れにくくなるという、有名な三本の矢の教えは、この遺訓をもとに、後世脚色されたものである。

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