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文政10(1827)年、鹿児島城下加治屋町の下級士族の家に生れる。家が貧しく18歳の時に郡方書役助をつとめて家計を助けた。その時、農民たちなど悲惨な状況や役人たちの不正を訴え、藩主に意見書を提出する。安政元(1854)年に中御小姓となり、藩主・島津斉彬に従い江戸に出て庭方役として仕える。その間水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らの名士と交わり影響を受けた。このころペリーの渡来に国情が揺れる中、斉彬の命により京都・江戸の間を往復し、将軍継嗣に一橋慶喜擁立の運動に奔走したが、井伊直弼が大老に就任し、安政条約調印、紀州の慶福を将軍継嗣に決定して反対派弾圧のために安政の大獄を起すに至った。
安政5(1858)年、斉彬病死にあたり殉死を考えつつ、僧月照を護衛して帰藩したが、藩当局は月照の保護を認めなかったため同年11月、心中をはかり錦江湾に身を投じた。しかし隆盛だけ生き残り、菊池源吾と変名をつけられけ奄美大島に流された。当地で謫居のあいだは地元の過酷な砂糖取り立ての惨状に抗議すべく代官相良角兵衛に行政改善を訴え、認めさせている。
3年後の文久2年(1862)大久保ら働きかけにより帰藩し、大島三右衛門を名乗り徒目付・庭方兼務となる。藩主の実父で実権を握る島津久光の上洛の際、命を破って先に上洛したため逆鱗にふれて、罪人として徳之島、次いで南の沖永良部島に流された。2年後、国事の変化に応じて元治元(1864)年2月に赦され、3月上京して軍賦役,小納戸頭取となり、7月の蛤御門の変(禁門の変),第一次長州征伐に至っては薩摩藩代表として陣頭指揮をとった。またこの功により藩から西郷復姓を許される。また共和国制を談ずる幕臣・勝海舟の影響で、しだいに討幕へと傾く。
第二次長州征伐の起る頃、土佐の坂本龍馬の斡旋により長州藩の木戸孝允らと薩長連合の盟約を結んだ。慶応3(1867)年、武力討幕の方向をとり、12月9日の王政復古の大号令、明治元(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いと幕府を追い込んだ。やがて大総督府参謀となって東下し、旧幕府方の勝海舟と折衝して江戸城の無血入城を実現した。戊辰の内乱終息後、明治2年に王政復古の功臣として賞典禄永世二千石を賜り、正三位にも叙せられたが帰藩し鹿児島藩大参事となって藩政改革に当った。
明治4(1871)年に上京して参議となり廃藩置県の断行に当り、のち政府の首脳として岩倉使節団の留守を預かるとともに陸軍元帥兼近衛都督・陸軍大将となり、陸軍の中心人物となった。明治6年、征韓論が起ると自ら遣韓大使たらんことを主張したが、米欧巡回から帰朝した岩倉・大久保らの反対によって敗れ、同志の参議板垣退助・江藤新平らと下野し、ただちに鹿児島に帰った。
明治7(1874)年6月、士族子弟の教育のための賞典学校,吉野開墾社などの教育機関「私学校」を創設。明治10年(1877)西郷が作った私学校の生徒が火薬庫から弾薬を運び出し、新政府と衝突し、私学校メンバーの軽挙妄動を叱るが、挙兵を訴える中村半次郎や篠原国幹らの激情に自らの命を預け挙兵する。薩軍は桐野利秋,篠原国幹らの主導により戦闘が行われ、隆盛自身は一度も指揮をとることなく、黙って彼らに従ったという。9月24日、城山で自刃。享年51歳。この役に関わったため官位を褫奪されたが、のち22年、正三位に復し、35年嗣子が侯爵となった。 |