石田三成(1560〜1600)

石田三成  永禄三年(1560)近江国坂田郡石田村の旧家に生まれる。幼名三也、通称佐吉。15、16歳の頃、秀吉の長浜領主時代に近習となる。以来、誠心誠意、秀吉に尽くした。本能寺の変のあと、山崎の合戦、賤ヶ岳の戦に従軍。天正十三年(1585)秀吉が関白に就任したころより持ち前の才覚で頭角を現す。翌年小西隆佐とともに堺奉行となる。やがて浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以らの豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった。
 天正十八年(1590)の小田原征討、奥州平定ではみずから戦闘の指揮をとったが、上野・館林と武蔵・忍(おし)の二つの城攻めに続けて失敗、戦さ下手を露呈した。三成は、軍事的才能よりも実務官僚としての能力にすぐれていた。
 文禄元年(1592)朝鮮出兵が開始されると舟奉行として佐賀・名護屋に駐留し、秀吉の朝鮮渡海が徳川家康、前田利家らの諌止によって中止されると、代官として増田長盛、大谷吉継などとともに渡海。前線の諸軍を監察して戦況を見定めると、小西行長が進めていた講和論を支持し、文禄二年(1593)明の講和使を伴って帰還した。しかし、朝鮮での行動は加藤清正ら武闘派諸将の反感を高めた。文禄四年(1595)関白豊臣秀次が失脚自殺し、慶長三年(1598)秀吉が死ぬとその確執が表面化していく。
 秀吉の死後、三成は豊臣秀頼による支配体制を擁護するため、前田利家や毛利輝元に接近し、豊臣氏に伍す勢力をもつ徳川家康の行動には警戒を緩めなかったが、家康が豊臣氏の制法に違背するに及んでこれを糾弾した。しかし加藤清正・黒田長政ら七将に襲撃されて佐和山城への閉居を余儀なくされる。豊臣家を危うくする家康に憤懣やるかたない三成は、反徳川勢力を結集して、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に及ぶ。
 関ケ原の合戦に敗れた三成は、下痢と空腹で衰弱し、伊吹山中の岩窟に隠れているところを、徳川方の武将田中吉政に捕えられた。家康の本陣に護送され、小西行長、安国寺とともに、洛中引き回しのうえ六条河原で首をはねられ、その首は三条大橋に晒された。
 その途中、のどが渇いた三成が白湯をもとめた。湯がなかったので、警護の者がかわりに干柿を差し出したところ、千柿は体に悪いと言って断った。警護の者が、もうすぐ首を斬られるのに毒でもあるまいと笑うと、「命を惜しむは、何とぞ本意を逢せんとぞ思うゆえなり」と、死を怖れることなく刑場に向かったという。41歳。

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