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直江兼続は、永禄三年(1560)上杉謙信の重臣樋口兼豊の子として生まれる。謙信死後、御館の乱で家督を勝ち取った景勝に仕え、以後、景勝の参謀として織田、豊臣との折衝をこなし、上杉の領地を確保している。
天正十四年(1586)景勝が上洛して秀吉に謁見したとき、秀吉は景勝ばかりでなく、兼続も一緒に大坂城内を案内。そればかりか、秀吉が茶をたてて景勝に勧めたとき、千利休が兼続に茶をたてていたという。秀吉にとっての利休と、景勝にとっての兼続が似た存在だということか。
また、同十六年に景勝が従三位・参議に任官されたときにも、兼続は従五位下・山城守に任ぜられている。つまり兼続は、他の独立した大名と同等以上に認められていたのである。事実、景勝が会津一二〇万石に移封されたとき、兼続には米沢三〇万石が与えられた。関ケ原の合職では西軍側についたといわれるが、これは結果論のようだ。敗戦後、景勝がその米沢三〇万石に転封、兼続が家老となったというのも、因縁めいている。 |