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慶応元年(1865)ころ、一部の志士たちの間で話題にのぼっていたのが、倒幕の大義のために雄藩の薩摩と長州が手を結ばせようというものであった。しかし、八・一八の政変で薩摩にひどい目にあった長州は天敵のように憎んでおり手を結ぶなどとはありえない話であった。
この薩長和解を早くから唱えていたのが土佐藩の土方久元と中岡慎太郎であった。そしてこの構想に賛同したのが坂本龍馬であった。
龍馬と土方、中岡は、協力して薩長和解実現に尽くし、慶応元年閏五月には、薩摩代表の西郷吉之肋と、長州代表の桂小五郎の会談を設定するまでにこぎつけた。しかし、このときは西郷がまだ和解に踏みきれず、会談場所の下関に現れなかったので、かえって桂を激怒させてしまった。
坂本らはひたすら謝り、なんとか桂の機嫌を直すようつとめると、少し落ちついた桂は、外国の武器類を薩摩の名義で購入したものを、ひそかに長州に横流しすることを依頼した。
この条件を龍馬は快諾した。さっそく、薩摩の許可をとり、イギリス商人グラバーから軍艦ユニオン号を三万七五00両、また洋式銃七三〇〇挺を九万二四〇〇両で購入した。これを自分の亀山社中を使って下関まで運搬し、長州側に引き渡した。
待望の軍艦と鉄砲を受け収った桂小五郎はよろこんだ。そして、これだけの誠意をみせた薩摩を許し、和解に応じることにしたのだ。
翌慶応二年(1866)一月八日に京都に上った桂は薩摩邸に入り交渉をはじめた。順調に進むと思われたがそうではなかった。桂から和解を持ち出せないとして長州に戻るというのであった。そこで坂本は西郷らに長州の苦しい立場を説明し、西郷も理解した。こうして二十二日、薩摩が長州に同盟を申し入れる形で和解は成立した。そして来るべき倒幕への対応を視野にいれて六ケ条の同盟が結ばれた。
これら六か条の議決内容は、正式な文書にはされなかったが、後日、桂が独自に清書した文書の裏には、坂本が裏書きした。 |