永禄三年(1560年)五月十二日、今川義元は約二万五千人の軍勢で、上洛のために駿府(静岡)を出発した。十七日に岡崎へ、十八日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。天下を目指す織田信長は、五月十九日未明、清洲城を出陣。わずか二百人ほどしか従わなかったが、熱田神宮に戦勝祈願の参拝をしたころは、千人余りとなり、合戦のときには軍勢三千人ほどになった。
義元は、桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽しているところを、太子ヶ根に待機していた信長軍が、一挙に義元の本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、義元の弱ったところを毛利新助が首を取った。要した時間は、2時間という一瞬の戦いであった。
この戦いで戦死した者は、今川軍二千五百人、織田軍八百三十人ほどであった。この一戦の勝利で織田信長の天下布武の道が広がっていく。 |