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天文三年(1534)、三淵晴員の次男として誕生。天文七年に一二代将軍義晴に謁見すると、寵愛を得て、翌年将軍の命に御供衆細川元常の養子となった。13歳で元服し細川藤孝と名乗り将軍の側近となった。永録八年(1565)義輝が松永久秀に暗殺されると、藤孝は軟禁されている義晴の次男一乗院覚慶(のちの義昭)を救出し、若狭武田氏、越前朝倉氏などを頼って流浪。永録十一年に織田信長の援助を得て義昭を上洛させた。しかし義昭が天正元年(1573)反信長の兵を挙げると袂を分かち信長の家臣となった。
天正十年、本能寺で信長が討たれた、明智光秀の娘が藤孝の長男忠興の嫁としている縁から援軍を頼まれたが断り丹波にこもってしまう。また関ヶ原の戦いでは東軍として田辺城に籠城、西軍を六十日間も釘付けにする。
和歌・連歌の道に通じ、茶道、音曲などの芸術を究めた教養人でありながら、若い頃から流浪し権力闘争の中で生き抜いてきた。それが熊本五十万石細川藩の基礎を築いた。慶長十五年(1610)没した。77歳。 |