|
武蔵国生まれ。もともと攘夷論者で、文久三年(1863)、幕府の対外政策を怒り、仲間と挙兵を企てたこともあった。これは不発に終わったが、じっとしていることができず、江戸に出て国事に奔走するようになった。この頃、一橋家用人の平岡月四郎と知り合い、その縁で一橋家に仕えることになった。幕府と一橋家派別というのが渋沢栄一の見方であった。
栄一は一橋家において、経済面での能力を発揮、慶応二年(1866)には勘定組頭に出世した。主君慶喜が将軍になると、栄一も徳川家御家人の一人として幕府に仕えた。面白くない状況の中、慶応三年、徳川昭武の随員としてヨーロッパに渡ることになった。
フランスでは栄一は上下水道、ガス道など注目。ベルギーではアンベルス砲におどろき、またリエージ製鉄所に感嘆した。
帰国した栄一は一時官に就いたが、明治六年退いてからは再び官に戻らず、経済界にあって尽力した。日本最初の銀行の創設、通商会社、為替会社、紡績会社、ガス、鉄道等、功績は数え切れない。昭和6年に死去。 |