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鹿児島の城下高麗町に生まれる。西郷隆盛らと同じ郷中で幼少より特に親交があった。
17歳のとき藩の記録所書役助として出仕。嘉永三年、嘉永朋党事件(高崎崩れ)に連座して免職。しかし、島津斉彬が藩主となったことで許され、復職した。その後西郷らと結び改革派の中心となった。
安政六年(1859)斉彬が病死したことで、同志40余人と脱藩を企てたが、藩主忠義自筆の諭書により取止め、これより同志は誠忠組と呼ばれた。以後、藩主の実父で実権を握る島津久光に苦心して近づき、やがて久光に信頼を得ることで、藩を挙げての幕府と朝廷の協力体制(公武合体)による国力の結集を推進した。
寺田屋事変、生麦事件、薩英戦争、禁門の変から第一次長州征伐へと進むなかで幕府を見切り、西郷と共に反幕に傾く。そして坂本龍馬らの仲介で慶応二年に薩長同盟を結び討幕へと進んだ。
慶応三年(1867)王政復古のクーデターを成功させ、薩長両藩への討幕の密勅降下など岩倉具視と結んで討幕への動きに指導的な役割を果した。
明治政府が成立した慶応三年(1867)十二月に参与、明治二年七月参議となった。薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入った利通は、列強に対抗できる強力な集権体制の樹立に全力を傾注した。版籍奉還、廃藩置県等の改革を成功させ、明治四年大蔵卿となり内政確立をめざす。十一月には岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる。
明治六年(1873)に帰国すると、征韓論の主張する盟友・西郷と対立した。征韓派参議辞職後、内務卿を兼ね政府の中心となり、殖産興業政策の推進をはかり、また租改正や秩禄処分を断行した。同時に、教育の普及と地方制度の整備に努めた。殖産興業をすすめるとともに、自由民権運動、士族の叛乱、百姓一揆の続くなかで専制的な支配を強めながら、明治七年の佐賀の乱、明治十年の西南戦争に至る事件を乗り越えた。明治十一年石川県士族島田一郎らによって紀尾井坂で暗殺された。 |