「三成にすぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と俗謡に歌われたように、石田三成の重臣・島左近は名軍師として著名だった。
生年も出身も不詳だが、筒井順慶の家臣として活躍し、松倉右近という重臣と並んで「右近左近」と呼ばれたという。しかし、天正十二年(1584)に順慶が死ぬと、その子定次と合わずに飛び出し、浪人となった。
その後、三成が招いたという説と、豊臣秀長に仕えていたという説があり不明だが、三成が水口四万石を与えられたとき、半分の二万石で左近を迎えている。
三成は、豊臣家の家臣団でもトップクラスの閣僚だったが、文治派、いわば事務官僚であって、武将としては実戦経験が乏しかった。しかし、朝鮮の役などには、一九万石の大名として出陣しなければならない。それを補うためにも、左近のような百戦錬磨の参謀役が必要だったというわけだ。
開ケ原の戦いでは、三成軍の先鋒として孤軍奮闘活躍したが、ついに討死した。 |