豊臣秀頼ら大阪方は徳川家康の度重なる挑発に矛を収められるはずはなく、再戦は不可避であった。その上、家康は大阪方の再戦の準備を咎めて、再び、大阪城に篭った浪人を追放するか、秀頼が大和か伊勢への国替えに応ずるか、いづれかを迫った。
受け入れられるばすもない要求を突きつけ、それが拒否されると、元和元年(1615)五月七日、家康は大阪城攻撃を開始した。大阪方にとって、頼みの大阪城は裸同然ですから、冬の陣の時のように篭城戦を採ることはできず、かといって、城外に打って出れば圧倒的な徳川軍に対抗できるはずもなく、局所的には真田幸村・後藤基次隊らの奮戦があったものの、勝ち目がなかった。
その日の夕方、真田隊が壊滅したことから大阪方は総崩れとなり、徳川方の兵が大阪城に乱入。大阪方は秀頼の妻千姫(家康の孫娘)を家康の元に送り届け、同時に秀頼と淀殿の助命を嘆願するが認められず、翌五月八日、秀頼・淀殿が避難していた大阪城山里曲輪の糒蔵に一斉射撃を加え、秀頼23歳・淀殿49歳は自刃した。 |