徳川家康は大阪城に貯えられていた膨大な量の財宝を減らすため、秀吉供養のためという理由で、寺社の再建を勧めた。その一環として方広寺大仏殿が再建され、新しい鐘が鋳上がった。しかしその鐘に鋳込まれた銘に、家康は難癖をつけた。これが、慶長十九年(1614)八月、方広寺鐘銘事件である。鐘銘の「国家安康」は家康の名を故意に分かつものだと非難して、供養の延期を主張。さらに同年九月、家康は、豊臣家の安泰のために、秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿を人質として江戸へ差し出すか、大坂以外への移封に応じるか、いずれかを選択するよう求めた。
豊臣秀頼は衝突は不可避と判断して、大坂城の防備を固め、兵糧を城内に運び入れる一方、各地に檄を飛ばし加勢を求めた。それに対して家康は、徳川軍は二十万余の兵をもって大阪城を囲み、「大阪冬の陣」が始まった。だが家康は天下の堅城のために攻めあぐむ。そこで徳川軍は、大砲を打ち込む、城に向かって穴を掘る、など示威行動で豊臣方の動揺を誘う作戦に出て、思惑通り女性たちは、砲声や地響きに脅え、それを見計らって家康は和議を申し入れます。渡りに舟の豊臣方はこの和議を受け入れる。その時、徳川方は和議になかった内堀まで埋め立ててしまった。 |