加藤清正(1562〜1611)

加藤清正  永禄五年(1562)尾張の武士・加藤清忠の子として生まれる。豊臣秀吉の母の従姉妹にあたり、秀吉子飼いの家臣。数々の手柄をたてたが、天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の一人として活躍、河内国など三千石を与えられた。
 天正十六年(1588)朝鮮出兵の主要員として肥後半国十九万五千石の領主に任命される。文禄の役(朝鮮出兵)では小西行長とともに日本軍先鋒の将となり、鬼将軍と恐れられた。
 関ヶ原の戦では徳川方につき、功により肥後一国五十四万石に加増され、肥後守となる。その間、日本三大名城のひとつ、熊本城築城とその城下町整備をすすめた。また独特の手法で領内の大河川の治水、新田造成に力をいれ、土木の神様と称された。こうした技術は江戸城、名古屋城の普請にも生かされている。
 関ケ原の合戦以後、天下は家康のものとなったが、清正の豊臣家への忠誠心は変わらなかった。慶長十六年(1611)、二条城での家康と秀頼の会見を、淀殿の反対を説得して実現させたのも、豊臣家存続のためであった。しかも、万が一に備えて、懐刀をしのばせていたという。
 このあと領国肥後へ向かう船中で病に倒れ、帰国後、間もなく死んだ。死因は脳出血と思われるが、その突然の死に、家風による毒殺説も流れた。50歳。

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