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慶喜は水戸昭の七男として天保八年(1837)に生まれた。11歳のときに御三卿の一橋家を相続した。ペリー来航で国中が揺れているときに、病弱な将軍家定では頼りないということで、いわゆる「将軍継承問題」が持ち上がった。このとき、紀州慶福を推す一派に対抗して幕府内外の改革派によって将軍後継者に推された。擁立する首脳部は島津斉彬と松平慶永らであった。一橋派の形勢は有利であったが、老中の阿部正弘が病死し、大老の井伊直弼が幕閣を握ることになり、一橋派は追放された。これにより慶喜も直弼より隠居・謹慎を命じられ、十四代将軍に家茂となった。
文久二年(1862)、島津久光が朝廷の意を受けて幕政改革を進め、慶喜は公武合体派代表というかたちで将軍後見職となった。
元治元年(1864)三月、慶喜は将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に任じられて京都へ常駐し、強大な勢力を築き、一時は江戸幕府に拮抗する一大勢力を築く。江戸幕府の側近との暗躍は続いたが慶喜の勝利となった。禁門の変では、松平容保率いる幕府軍を指揮して長州勢の入京を阻止する。
慶応2年(1866)、家茂が死去し、30歳のとき慶喜はとりあえず徳川宗家を正式に相続した。十二月には孝明天皇の御意志によって将軍となった。まず長州との休戦を決め、幕府改革に取り組んだ。慶喜は幕軍が長州に敗れた教訓をいかし、フランスに協力を求め、装備・兵制を近代化して、実力で討幕派諸藩を圧倒しようとした。
しかし、態勢が整なわないうちに薩長同盟による挙兵討幕となり、ついに慶喜は大政奉還の策にでた。これは一時の方便にすぎず、政務のとれない朝廷から、再び実権を任されることを狙い、巻き返しを図るところであったが、討幕派によって「王政復古の大号令」によって、その意図も崩れた。そこで開戦を決意したが鳥羽伏見の戦いで、はじめ大阪城にて徹底抗戦の構えを見せていたが、勝算がなくなると大阪城を脱出し江戸に逃げて、上野寛永寺大慈院に引きこもる。
その後種々再起のチャンスがあったものの、慶応三年(1867)には江戸開城し、水戸に移る。維新後は赦されて公爵・貴族院議員となって、大正二年まで生きた。 |