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慶応四年(1868)の一月三日、ついに旧幕府軍と新政府軍が、京都の南の鳥羽と伏見で武力衝突した。この鳥羽伏見の戦いを皮切りに、以後、一年半にわたって繰り広げられた内乱を戊辰戦争という。
江戸における薩摩の挑発行為が報じられると、大坂城内の幕臣や会津、桑名の藩兵たちは憤激した。もはやその勢いは、慶喜にも止めることはできず、ついに朝廷への討薩の表をもたせ軍勢を発進させた。
大坂城の総兵力一万五〇〇〇のうち、少なくとも数千の軍勢が鳥羽方面と伏見方面の二手に分かれて北上した。
そして三日夕刻、鳥羽の関門を守備していた薩摩兵が、通過しようとした旧幕軍に向けて一発の砲弾を放ったことで、戦闘の火ぶたが切られた。続いて伏見奉行所に布陣していた新撰組らの旧幕府軍と、御香宮神社の薩摩軍が開戦となり、戦争の初日は二か所での激戦が展開されることになった。
ちなみに、新政府軍の兵力は薩摩を中心とする五〇〇〇ほどで、旧幕府軍の総兵力の三分の一でしかなかった。兵力的には旧幕府軍が圧倒的に有利であったわけだが、全兵力を出兵させたわけではなく、また、大砲や鉄砲の数や性能の面において遅れをとっていたため、旧幕府軍は初日の戦いに苦戦した。
そして、戦況を決定づける出来事が翌四日に起こつた。新政府軍から征討大将軍に任じられて出陣した仁和寺宮の陣中に、「錦の御旗(錦旗)」が立てられた。錦旗は、昔から官軍(朝廷方の軍隊)の証拠として使われてきたしるしで、とくに軍記物語『太平記』 のなかには後醍醐天皇の正当性をしめす象徴として、しばしば登場する。同書は、武士階級の必読書であったから、実物を見たことはなくても、錦旗がどういった意味をもつのかは兵士たちはみな知っていた。この錦旗の効果は絶大だった。新政府軍は正式に「官軍」と認められたことになり、兵士たちの士気は高まった。逆に旧幕府軍は「賊軍」ということになり、戦意を消失する者が続出した。 |