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元治元年(1864)六月六日に勃発した池田屋事件は、現場から脱出した有吉熊次郎によって長州本国へ伝えられた。 かねてより藩主親子と三条実美ら五卿の赦免を訴えるための上京を準備していた藩内過激派は憤激する。
ついに長州軍は山兵を決め、総勢600の兵が京都に向けて出発した。上京の名目は赦免嘆願ということだったが、むろん要求が通らなければ開戦もやむなしとの決意だった。
六月二十五日、久坂玄瑞、真木和泉の率いる三百余人の軍勢が山崎大王山に陣を張り、次いで福原越後らの三百余人が伏見、来島又兵衛、国司信濃らの六百余人が嵯峨天龍寺、益田右衛門介らの六百余人が八幡川に、それぞれ布陣した。
こうした京都を包囲するような陣形をとったまま、長州藩は朝廷に赦免嘆願を繰り返したが、聞き入れられることはなかった。その間に幕府方では諸藩兵が動員され、御所の周囲は厳重に固められた。
そして七月十八日、朝廷からの退去命令を長州藩が拒否したことで決裂。翌十九日未明、ついに長州藩が発砲して開戦となる。この戦争を禁門の変といい、とくに御所の蛤御門付近が激戦地となったことから、蛤御門の変とも呼ばれた。この戦争で久坂玄瑞、来島又兵衛らが戦死した。
禁門の変は長州藩の惨敗に終わり、以後、長州藩は御所に発砲した罪によって朝敵とされることになった。 |