桂小五郎 (1833-1877) 長州藩士

木戸  桂は天保四年、萩呉服町江戸屋横丁、木戸昌景の長男として生まれた。七歳のときに隣家の桂孝古の死によって桂家の養嗣子となった。
 16歳のとき、松陰の門下生となった。まだ松除が松下村塾を開く前のことである。同じころ松陰の門に学んだ者には、久坂玄瑞、小野為八、吉田稔麿、品川弥二郎、山縣有朋、伊藤博文、高杉晋作などがいた
が、高杉を除いては小五郎のような家格の前い者は異例の存在であった。
 松陰に学んだあと、小五郎は江戸に出て、当時江戸三大道場の一つといわれた斎藤弥九郎の道場に入った。小五郎はたちまちその人物と熱心さを認められ、塾頭に抜擢された。この間、小五郎は青年武士、とくに水戸藩士との交遊を深めた。
 25歳のとき、小五郎は初めて藩の役付となり、同時に江戸藩邸詰めを命ぜられた。次いで藩邸内の有備館御用掛、そして同館長に昇任した。
 29歳のとき、周布政之助らとともに他藩の交渉役に任ぜられ、藩内を攘夷親征にリードした。ところが八・十八政変で京から長州藩士が追い出されることになった。
 桂は京都を脱出したが、ほどなく変名して京都に潜入した。ひそかに諸藩の知己や公卿などを訪ねて、長州の名誉回復と七卿の雪辱を図って裏工作を続けた。
 元治元年(1864)六月五日の池田屋事件のとき、間一発で逃れることができた。桂はこの夜に、一度池田屋へ行ったが誰もきていないので対州藩邸に寄っていたので難を逃れた。このあと小五郎は三条大橋の下にひそんでいたが、かねて馴染んでいた三本木町の芸者幾松が握り飯を運んで小五郎を助けたというのは有名な話である。のちに幾松は小五郎の正式の妻となっている。
 その後も第一次長州征伐と事件が続く中、京や丹馬に潜伏し、藩の信頼回復に尽力する。
 長州藩内では高杉らによって正論派が制することとなり、急きょ帰国した。藩主から藩政を委ねられ、土佐の坂本龍馬の周旋により西郷隆盛と薩長同盟を結ぶ。
 1867年、王政復古が宣言されると、その翌年、新政府の参与となる。五箇条の御誓文の起草に参画した後、版籍奉還、廃藩置県の断行にも大きく貢献する。維新の三傑とも評される。1871年には、岩倉遣欧使節団の一員となり渡欧する。帰国すると、それまで賛成していた征韓論に反対するようになる。そして、西郷隆盛を下野させ、後に征台論を唱えた大久保利通とも対立し、辞職する。1877年、西南戦争の最中に、脳腫瘍により死去。

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