井伊直弼(一八一五〜六〇) 大老・彦根藩主

井伊直弼  井伊家は、徳川四天王の一人とうたわれた井伊直政の裔で、譜代のなかでも名門であり、代々彦根藩主であった。直弼は、文化十二年(1815)、この井伊家に生まれたが、十五人の男子のうち十四番目の子であった。兄たちは、次つぎと他家へ養子に行き、天保二年(1831)に父が死んだとさには、直弼と弟一人が残されていた。 家督をついだ兄直亮は、父に代わって弟たちの婿入り先を探していた。天保五年(1834)、養子の口がかかり、婿入りしたのは弟の方であった。
 一人残された直弼は、三十五万石の子でありながら、埋もれかねないかに見えたが、弘化三年(1846)、兄直亮が死亡したため直弼がそのあとへなおり、嘉永三年(1850)36歳で家督をついだのである。直弼は、将軍後嗣問題で徳川慶福を推した南紀派の衆望をになって、大老に昇ったのである。
 幕府の最高権力者となった直弼は、まず、川路聖謨など一橋派の役人を左遷した。ところが、アメリカとの通商条約問題が焦点となった。直弼は苦慮の末、勅許を待たずに安政五年(1858)に日米修好通商条約を調印を断行した。これによって、将軍継嗣問題に関する形勢は逆転し、いまや一橋派の勝利は明らかであった。彼らは追勅調印をよい口実にして直弼を攻撃し、失地を回復しようと試みた。だが、直弼は、そのような試みを一蹴し、登城をあえてしてまで直弼にさからおうとして大名は、御三家といえども、容赦なく処罰してはばからなかった。
 それに対して朝廷側や一橋派の尊皇攘夷志士たちが巻き返しを計ったが、直弼が反撃に出て、安政の大獄が始まった。京都の町を捕吏がとびかい、志士がぞくぞくと捕らえられて、安政五年から六年にかけて江戸へ送られた。公卿の多くも処罰をこうむり、朝廷勢力は大打撃を受けた。
 弾圧に成功した直弼だが、万延元年(1860)三月三日、登城中の直弼は、江戸城桜田門外で襲撃され、落命した。いわゆる桜田門外の変である。

関連の本関連の本・・・
●井伊大老暗殺 水戸浪士金子孫二郎の軌跡 (著書/堂門冬二)
●小説川路聖謨 (著者/童門冬二)
●江戸 人遣い達人伝 (著者/童門冬二)
●維新の群像 桜田門外の変 (著者/司馬遼太郎)
●開国 (著者/津本陽)
●剣に賭ける (著者/津本陽)
●おおとりは空に (著者/津本 陽)
●薩南示現流 (著者/津本 陽)

メニューへ


−トップページに戻る−