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鳥羽伏見の戦いの最中に江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は、新政府軍に対してひたすら恭順の姿勢をとり続けた。慶応四年(1868)二月十二日には上野の寛永寺に入り、みずから謹慎の身となった。
一方、京都、大坂を制圧した新政府軍は徳川家の拠点である江戸を攻略するため、東海道、中山道、北陸道の三方向から進軍した。
この徳川家の窮地にあたり、慶喜が最後の望みをたくしたのが勝海舟だった。新たに陸軍総裁に任命された海舟は、新政府軍の参謀となっている西郷吉之助に山岡鉄舟を送り、江戸総攻撃の前に会談をもちたいと申し入れた。
そこで海舟は、交渉が決裂したときのための奥の手を考えておいた。それは、新政府軍が江戸に進攻すると同時に、市中に火をはなち、敵の進路と退路を寸断するという作戦だった。「これは昔、ロシア都下においてナポレオンを苦しめた作戦だ」と海舟が書き残しているように、それを海舟は江戸で再現しょうというのであった。この逸話からもわかるように、海舟は新政府軍に村する脅しではなく、本気で江戸焦土作戦を考えていた。
はたして三月十三日、十四日の両日、薩摩邸で行われた西郷との会談では、この捨て身の覚悟が実をむすんだ。交渉の結果、慶喜は水戸で隠居する。江戸城を明け渡し、尾張徳川家の預かとすること。軍艦や武器はすべて新政府軍に引き渡し、後日徳川家の処分が決まったのちに相当分だけ返すこと。江戸城内に住む幕臣たちは城外に出て謹慎すること。これまで新政府軍に抵抗した者たちについては、寛大な処置を行うこと。今後、新政府軍に抵抗する者があれば、徳川家が鎮圧し、手に負えないければ新政府軍が討伐すること
こうした条件をのんだうえで、江戸城総攻撃は中止され、慶喜の生命の保証、徳川家の存続については基本的に了承された。 |