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文久三年(1863)頃の京都は長州藩を中心とする尊攘派の勢力は絶大になっていた。勢いに乗る尊攘派は、孝明天皇の大和行事計画をくわだてる。これは、孝明天皇が大和(奈良)に出向き、神武天皇陵や春日大社を参拝して攘夷を祈願するという趣旨のものだったが、尊攘派はそれに乗じて天皇の名のもとに倒幕の兵をあげようとした。
しかし、こうした状況を苦々しく思っていた公武合体派の薩摩藩は、ひそかに巻き返しをねらっていた。そして、同じく公武合体派の会津藩と同盟を結んで、尊攘派を京都から追い落とす計画を立てたのである。
そして八月十六日、孝明天皇から中川宮にあて、「兵力をもって国害をのぞくべし」とする勅状が出されたのだった。こうして、十八日の未明に政変は決行される。午前一時を集合時刻として、中川宮、近衛、二条らの公卿が御所に参内し、九つの門を厳重に閉鎖した。これらの門は、薩摩、会津、および京都所司代の淀藩の兵が守ることになり、いずれも武装してつめかけた。午前四時には御所の警備配置も完了し、朝議が行われて、尊攘派公卿の参内禁止や、長州藩の堺町御門警備の解任が決定された。
この異変に気づいた三条実美らは、急いで御所に向かうが、九門は閉ざされていて中に入ることができない。長州藩兵も、持ち場の堺町御門へ駆けつけたが、薩摩、会津の兵が厳重に固めていてどうにもならなかった。
両軍は一触即発の状態のまま対峙し続けたが、やがて朝廷から長州藩退去命令が出され、長州藩はたむなく東大仏妙法院に引き上げた。ひとまず長州藩へ退却して態勢を整え、再起をはかるしかないということに決した。
翌十九日午前十時、前夜から降る雨のなか三条実美ら七人の尊攘派公卿を護衛しながら、長州兵らは京都を去った。いわゆる七卿落ちである。八・一八の政変と呼ばれるこの事件によって、尊攘派勢力は京都から一掃されることになり、以後、長州は薩摩に対して、ぬぐいがたいうらみを抱くようになった。 |