Robert Wyatt
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The End of an Ear Rock Bottom The Peel Sessions Im_A_Believer_Memories Ruth Is Stranger Than Richard Nothing Can Stop Us The Animals Film Old Rottenhat Dondestan A Short Break Shleep Cuckooland

 本名はロバート・ワイアット・エリッジ。1945年1月にイギリス・プリストルに生まれる。父は産業心理学者、母は作家でジャーナリスト。母は再婚で既に3人の子供があり異父兄弟がいる。やがて、ダルウィッチに移ってから両親の影響でモダン・ジャズに興味を抱く。ピアノ、ドラム、ヴァイオリン、トランペットを演奏するようになる。

 1961年にカンタベリーのサイモン・ラングトン・スクールの美術クラスに入り、マイク・ラトリッジとブライアン・ホッパーと出会う。やがて、彼らと一緒に母親の所有するマンションの一室でジャズのレコードを聴いたり、絵を研究したりする。やがて、ブライアンの兄弟であるヒュー・ホッパーを加わえて4人でバンドを組む。

 その頃に母親が経営していたマンションには多くの旅人が訪れ、オーストラリアから来たディヴィッド・アレンの姿もあった。彼はヒッピー的生活を始めていてフランス、スペインなどを経てカンタベリーにきていた。ワイアットらは大きな影響を受けることになる。大学進学の失敗を機に、旅をしたり、またバンド活動を行う。その時にアレン、ワイアット、ヒュー・ホッパーの3人は《ディヴィッド・アレン・トリオ》の名でライブ活動を行い、1963年6月のマーキーでのライブ盤が1994年に『ライヴ1963』でリリースされている。

 カンタベリーに戻ったワイアットはホッパー兄弟に加え、カンタベリーの大学に進学してきたケヴィン・エアーズ(Vo.G)とリチャード・シンクレア(G)を迎え、1963年に《ワイルド・フラワーズ》を結成した。ところが、エアーズはスペインへ放浪の旅へ出てしまい、シンクレアも大学進学の為に脱退。一度は解散となるが、ワイアットがリード・ヴォーカルとなり、リチャード・クーラン(Dr)とパイ・ヘイスティング(G)を加え活動を再開。彼らはメロディ・メーカーのセミ・プロ・バンド・コンテストやラジオ・キャロラインのコンテストに出場する。

 1966年8月にスペインに行っていたケヴィン・エアーズとデヴィッド・アレンが一緒にカンタベリーに戻ってきた。そしてワイアット(Dr,Vo)、エアーズ(B,Vo)、アレン(G)と大学を卒業したマイク・ラトリッジ(Kb)でバンドを結成。ザ・ビショップス・オブ・カンタベリーやミスター・ヘッド・ディンゴなどを名乗っていたが、最終的に《ソフト・マシーン》に落ち着いた。彼らはロンドンに進出し、UFOクラブなどに出演。《ピンク・フロイド》のライバル・バンドとして注目を浴びるようになる。

 《ソフト・マシーン》は1967年1月にシングル〈Love Makes Sweet Music〉でデビュー。しかし、9月にドラッグ問題でアレンが脱退。(フランスで《ゴング》を結成)アンディ・サマーズを加えアメリカ・ツアーを行い、またファースト・アルバム『Soft Machine』を作成する。今度はエアーズがツアーに疲れ、スペインのイビザ島へ脱出。《ソフト・マシーン》は解散の危機を迎えるが、ヒュー・ホッパー(B)を正式メンバーとして迎え2作目『Volume Two』をリリース。その後、70年に大作『Third』、71年にジャズ色を強めた『Fourth』を発表。

 ワイアットは1971年に初のソロ・アルバム『The End Of An Ear』をリリースする。同年9月に正式に《ソフト・マシーン》を脱退し、《Matching Mole (マッチング・モール)》を結成。メンバーはフィル・ミラー(G)、ビル・マコーミック(B)、デイヴ・シンクレア(Kb)。バンド名はソフト・マシーンのフランス語での綴りである「マシーン・モール」に似た発音を英語に置き換えたもの。72年4月に『Matching Mole』、72年4月に『Little Red Record』を発表。後者はプロジュースにロバート・フリップ、ゲストにイーノを迎えている。《マッチング・モール》は豊な感性で音楽性の質の高い作品を残したが、シンクレアとマックレーが脱退。ワイアットとマコーミックはフランシス・マンクマン(Kb)とゲイリー・ウインド(Sax)を参加させ、第2期《マッチング・モール》をスタートさせる。ところが1973年6月、ワイアットがパーティーの席上、酒に酔って階段から落下、脊髄を痛め下半身不随の身となる。

 6ヶ月間の入院生活を送る。その最中に作曲を続け、再婚したばかりの妻で画家のアルフリーダ・ベンジ(アルフィー)や友人たちに支えられカムバックをする。入院費用は《ソフト・マシーン》や《ピンク・フロイド》がチャリティー・コンサートを開催し集めた。1974年5月に2ndアルバム『Rock Bottom』をリリースし高い評価を得る。更に、モンキーズの〈I'm A Belive〉のカヴァーでヒットを記録する。8月9日のカムバック・コンサートは、〔ハットフィールド&ザ・ノース〕や〔ヘンリー・カウ〕のメンバーらが集まり、ビック・バンドがサポートし、ワイアットの人柄が偲ばれるステージとなった。翌75年に『Ruth Is Stranger Than Richard』を発表。また、〔フィル・マンザネエヲ〕などのレコード・セッションなどの活動を続ける。

 その後は音楽活動をせず、絵を描いたり、愛妻のアルフリー・ベンジと共には自由大学やTVの通信講座などで、様々なタイプの教授たちの講義を聞き、教育・通信・政治・国際関係といった多種多様な学問を学ぶ。そして世界各国から放送されている短波放送を聞くようになり、そこから各地の弾圧の状況を知る。政治犯として投獄されている人々とも文通なども行う。一方で、アジア・アフリカ・ラテン諸国の民族音楽や第3世界の映画にも大きな興味をもつようになる。79年にイギリス共産党に入党し、静かな抗議を、音楽を通じて行い始める。

 80年代に入って再び音楽活動を始める。ラフ・トレード・レコードから独自の世界観と音楽観を持ったシングル4枚を発表し続ける。そのシングルに2曲を追加してまとめた『Nothing Can Stop Us』を1982年に発表。更に5枚目シングルとして〈シップビルディング/メモリーズ・オブ・ユー〉を8月にリリースし、翌年5月にはチャート35位となる。TV主演などに引っ張り出される騒ぎとなる。ラフ・トレードからはその後、動物虐待反対の映画サントラ盤『The Animals Film』、ピーター・ガブリエルの「Biko」やヴィクトル・ハラの「Te Recuerdo Amanda」といった人権抑圧を抗議した曲をカヴァーしたEP盤『Works In Progress』を83年10月にリリース。また、南アフリカに不当に支配されているナミビアの独立支援の為の『The Wind Of Change』といったシングルやEPを発表。フォークランド紛争を嘆くエルヴィス・コステロ作品「Shipbuilding」はヒットした。その後も多くのセッションに参加。

 そして85年11月に久々のオリジナル作品『Old Rottenhat』を発表。チリの軍事政権に処刑されたビクトル・ハラの歌や人種差別を抗議した「奇妙な果実」など様々なプロテスト・ソングが並んでいる。

 1986年の秋、スペインのTV局からインタヴュー出演依頼を受けたワイアット夫妻は、6ヶ月の飛行機のオープン・チケットを条件にスペインに出掛ける。その間にバルセロナでは2度のTV出演やセッションを行い、ワイアットの旅のドキュメンタリー・フィルムの制作にも協力する。スペインから半年ぶりにトゥイックナムに戻ったワイアットとアルフィーは騒々しさを増しつつあったこの街に不満を抱くようになる。形骸化しつつある共産党にも疑問を抱くようになり、87年頃には共産党を離党する。そしてリンカンシャーという静かな田舎へと引っ越す。その後、80年代後半には様々なコラボレーションやセッションを行うが、坂本龍一の〈We Love You〉も含まれている。

 その後も散発的な活動を続け、1991年には6年ぶりの新作『Dondestan』、92年にミニアルバム『A Short Break』、そしてまた6年ぶりに『Shleep』を発表。2003年には『Cuckooland』を発表する。2005年には約31年の月日を経てライヴ盤『Theatre Royal Drury Lane 8th September 1974』がリリースされた。

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