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Brian Eno | ![]() |
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HISTORY | ||
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1948年5月、イギリスのウッドブリッジに生れる。カソリック系の中等学校に通い、イプスウィッチ・アー・ト・スクールで2年、ウインチェスター・アート・スクールで3年間学ぶ。1967年に〔マーチャント・テイラーズ・シュミュルティニアス・キャビネット〕を結成。また、〔ザ・マクスウェル・デモン〕にも参加する。1969年、アート・スクールを出てロンドンに。 1971年にブライアン・フェリーらと〔Roxy Music(ロクシー・ミュージック)〕を結成。1972年に《Roxy Music》、73年に《For Your Pleasure》を発表する。 1973年に〔Roxy Music〕を解雇されて以降に本格的なソロ活動を始める。数多くの人々と共演してアルバムを残す。1973年レーベル仲間だった〔King Crimson〕のロバート・フィリップとテープ・リールを用いたプライベートな実験を行う。〔フィリップ&イーノ〕で《No Pussyfooting》を発表する。同年にソロ・アルバム《Here Come The Warm Jets》を発表。翌年にはケヴィン・エアーズらとのステージに参加。そしてセカンド・アルバム《Taking Tiger Mountain》をリリースする。 1975年の1月18日、フィル・マンザネラの《ダイヤモド・ヘッド》レコーディングからの帰途で交通事故にあい、頭に17針縫う怪我をする。入院している時に、友人が見舞いにもってきてくれたラジカセの音量が小さく聞こえづらく、ボリュームを上げようにもうまくいかずに放っておいたら、聞こえるようで聞こえないような音楽が心地よいものに感じられたという。この体験が彼の音楽性を変えた。 1975年には傑作《Another Green World》を発表。方向性を転じ静的で環境音楽的なものへと志向する。共演するミュージシャンも大幅に入れ替わり、フィル・コリンズやパーシー・ジョーンズが参加する。そして、自ら設立した現代音楽を専門とするオブスキュア・レーベルから《Discreet Music》を発表。全く前例のないイーノ独特の環境音楽への道を歩み出す。それが"アンビエント・ミュージック"という自ら発明した音楽へと発展していく。 1976年には〔Roxy Music〕で一緒だったフィル・マンザネラ率いる〔801〕に参加するが、ここでミュージシャンをコーディネートすることに関心を覚える。ジャンルや国境を越えて自由にミュージシャンと交流する。デヴィッド・ボウイ、クラスター、ウルトラ・ヴォックス、トーキング・ヘッドなど。こうして活動の最中で1977年に《Before & After Science》を発表。1978年には"ノー・ウェイヴ"と呼ばれるニューヨーク・パンクたちの《ノー・ニューヨーク》を発表する。 1979年にアンビエント・レーベルを設立。以後、ロック作品から離れ、アンビエント作品を数多く発表する。1982年までにソロ《Music For Airports》、ハロルド・バッドとの《The Plateaux Of Mirror》、ララジーとの《Day of Radiance》、ソロ《On Land》の計4枚を発表する。また、ジャンルを越えた活動としてはマイクロ・ソフトのウィンドウズOSへのサウンド提供もする。 1990年代に入り、飛躍的に仕事数が増え、ソロは勿論、コラボレーション、ゲスト参加、プロジュース、リミックス、サントラなど、70を越える作品を残す。 |
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