天正十年六月二日本能寺の変の翌三日夜半に、羽柴秀吉が備中高松城の水攻めの陣中で、織田信長の変事を知った。すぐさま秀吉は毛利側と和睦し、急遽、姫路城に向かって行軍した。道のりは70キロ。これを二日で駆け抜けた。これを「中国大返し」といわれる。
一方、信長を討った明智光秀は誤算続きで味方につく者がいないかった。加えて秀吉が思ったより早く進攻してきた。
六月十三日、両軍は山崎で対峙。兵力は秀吉四万、光秀は兵力を分散していたため1万六千。しかも脱走兵が続出していた。午前中、両軍は雨に濡れながら、円明寺川をはさんで小競り合いを繰り返した。午後四時、光秀軍が火ぶたを切り本格的な戦いが始まった。多数の秀吉軍が優勢に戦いをすすめ、光秀は勝龍寺城に逃れた。夜になると光秀は脱出し、明智光秀軍は降伏した。
十四日の朝、光秀は近江をめざして逃げる途中、小栗栖で農民の襲撃にあい、竹槍で刺されて落命した。 |