柴田勝家(1522〜1583)

柴田勝家  信長の弟で尾張末森城主・織田信行に仕えていたが、信行が信長との家督相続争いに敗れ、信長が実力を発揮しはじめるとこれに心服し、信行の二度目のクーデター決行を阻止する功名によって信長直臣となった。
 以後、信長の出陣にあたっては常に先鋒をつとめ、幾多の武功をあげた。ことに浅井長政の叛逆で京畿の政情が不安定となった元亀元年(1570)、長政と結んだ六角承禎の攻勢から近江の長光寺城を守ったとき、飲料水の瓶を割って城に戻らない覚悟を示して部下を奮い立たせ、勝利に導いたことから「瓶割り柴田」の異名をとった話は有名である。
 その後天正三年(1575)越前一国を与えられ、北ノ庄(福井)の城主となった。天正八年(1580)加賀の一向一揆を平定し、ついで越後上杉氏への侵略を開始したが、本能寺の変が起こったため北ノ庄に撤収し、政権の継承をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と対立した。
 信長亡き後の主導権争いを秀吉と演じた勝家だったが、天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いで秀吉に大敗。前田利家ら諸将も寝返り、わずか一〇〇騎ばかりの手勢に守られて、越前北ノ庄城へ逃げ帰った。しかし二日後には、秀吉の大軍に包糾されてしまう。勝家は、夫人となってまだ半年しか経っていないお市の方に退城を勧めるが、浅井長放との三人の娘だけを逃して、彼女は死を選んだ。翌日、総攻撃が始まると、天守閣の最上階から、「修理(勝家) の腹の切りよう見申し條て、後学に仕り候え」という言葉を残して、お市の方をはじめ一二人の愛妾、三〇余名の女中を刺殺し、みずからも切腹して果てた。62歳。

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