厳島の合戦 弘治元年(1555)九月

 天文二十年、陶晴賢は、主君大内義隆に反旗を翻した。大内氏の重臣の大半が晴賢のクーデターを支持したため、義隆は山口から逐われ、九月一日には自刃を余儀なくされた。
 弘治元年(1555)九月二十一日、晴賢は約二万の兵を率いて厳島に上陸。毛利方の宮ノ尾城に攻め寄せた。城内に籠もる毛利勢は五百にすぎず、晴賢は大軍を率いて攻めかかれば、すぐに降伏すると予測していた。だが、城兵たちは元就の救援の到着を信じ、水の手を絶たれたのちも、頑強に抵抗した。
 元就は、陶勢上陸の一報を聞くと、ただちに郡山城を出陣。元就は、強敵晴賢との決戦を前に、奇襲戦法以外に勝算はないと考えた。二万にも及ぶ陶勢は、厳島に閉じこめられた状態にあった。
 九月三十日、毛利四千は、厳島へ向けて出帆し、元就直率の本隊は、陶勢が陣取る厳島の西岸を避け、東岸の包み浦に上陸。敵陣の背後に陣取り、日の出を待った。翌日、夜明けと共に毛利本隊は眼下の陶勢めがけて猛攻撃をしかけた。また、小早川隆景の別働隊も陶勢の軍船に海上から攻撃を開始した。 対する陶軍は、前夜のうちに毛利軍が接近していたことを察知していなくて、毛利の完璧な奇襲戦となり、陶勢は、またたくまに混乱状態となった。二万の大軍といえども寄せ集めにすぎず、まったく統率がとれなくなり総崩れとなった。

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