北条早雲(1432〜1519)

北条早雲  下剋上を実践して、戦国時代の口火を切った。早雲の出自については、いまだに謎に包まれて諸説がある。文明元年(1469)38歳の頃に妹を頼って駿河に下った。この頃は伊勢新九郎氏長と名乗っており、北条姓をなのるのは子・氏綱の代になってからである。文明八年(1476)、今川義忠が戦死すると家督をめぐって内紛が生じ、それを調停。北川殿の子氏親を家督につけることに成功する。この功績で甥の氏親の後見人となり興国寺城(沼津市)の城主となる。
 延徳三年(1491)、伊豆の堀越公方の旧勢力の家督をめぐる内紛に乗じて、茶々丸の本拠・韮山を滅ぼした。早雲は領国経営にも優れ、病人の看護をさせたり年貢を五公五民から四公六民へと軽減したりした。
 八十歳を過ぎてから、名門三浦氏を滅ぼし、伊豆、相模二国を制圧した北條早雲は、目も耳も衰えず、歯も抜けず、かくしゃくとしていたという。しかし、長男、氏綱に家督を譲って隠居した翌年、三浦半島へ舟遊びに出かけてから体調を崩し、永正十六年(1519)八月十五日、伊豆韮山城で88歳の生涯を閉じた。

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