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慶応四年(1868)四月十一日、江戸城は開城となり、徳川慶喜は城を出て、水戸に隠退した。幕臣の多くはこれに従い警護しながら水戸に入った。
しかし、この日一部は江戸を脱走し、新政府軍に抵抗する姿勢をみせていた。
旧幕府軍の歩兵奉行の大鳥圭介を総督に新撰組の土方を参謀として集結し二千人を超える大軍が編成された。宇都宮、日光と転戦しながら奥州の会津に到達する。また旧幕府海軍も副総裁の榎本武揚を中心に品川から安房館山に軍艦八隻を回航させていた。
さらに江戸には天野八郎は頭取として彰義隊が五百人を越す旧幕臣が集まっていた。しかもこれに旧幕臣竹中重固率いる純忠隊、関宿藩を脱藩した万字隊、高田藩脱藩の神木隊といった諸隊が合流し、総勢は一五〇〇人にふくれあがっていた。それらがみな上野の寛永寺にたてこもり、旧幕府の意地を見せようと気勢をあげるのだった。
海舟の使者として山岡鉄舟が説得にあたったが失敗。ついて新政府軍が討伐に乗り出すことになった。このときの指揮官が長州藩の大村益次郎であった。長州の軍政改革を一手に担い、第二次長州征伐戦争の際には天才的な采配ぶりをみせていた。
五月十五日に決行された上野総攻撃では、この大村の実力がさらに発挿された。そのため、早朝から始まった戦争は、午後四時ごろには早くも決着がついた。とくにものをいったのは、新政府軍傘下の佐賀藩がもっていた最新兵器のアームストロング砲二門で、これが信じられないような遠距離から何発も打ち込まれた。その他新政府軍の兵器は取新式を誇っており、それに対して彰義隊のほうは旧態依然とした軍備にとどまっていた。加えて、新政府軍が大村のような有能な指揮官による戦略があったが、彰義隊はいわば烏合の衆で、軍隊としての統制がとれていなかった。彰義隊が惨敗をとげたのもやむをえないことだった。 |