島津久光 (1817〜87) 薩摩藩主

  西南の雄藩、薩摩藩では、安政五年(1858)7月、斉彬が急死したあと、子がなかったため、甥の忠義が藩主になった。そして、翌年9月には、斉彬の父元藩主だった斉興も他界したため、藩の実権は、新藩主の実父で御見役たる久光がにぎることになった。
 久光は文化十四年(1918)生まれであるが、斉彬とは生母が界なった。そこで、斉彬があまりにも開明的なため藩内守る派からうとまれると、お由羅の方は、わが子久光に斉興の跡をつがせようと望み、いわゆるお由羅騒動が起こった。このとき、斉彬派では四十数名が過酷な処罰を蒙ったため、斉彬が藩主になると、反対派にたいする処分を期待する者が少なくなかった。しかし、斉彬は、現在のような国家非常事態のさいには分藩力を結集べきであると諭して、人材が失われるのを防いだ。
 このため薩摩藩は、多くの逸材を維新史の舞台で活躍させることになるが、久光も兄斉彬の志をついで、藩をあげて尊皇攘夷の立場をとろうとした。門閥の出身ながら尊攘派に理解ある小松帯刀を取り立て、また、大久保利通や西郷隆盛などの尊攘派も重んじた。こうして藩内勢力を統合すると、久光は、いよいよ中央政界に打って出ようと決心した。
 文久二年(1861)三月一六日、江戸上屋敷の新築にことよせて、一千余人の兵をしたがえて、京都に向かった。各地にいた尊攘派の志士は狂喜し、大阪の薩摩邸に入った。ところが久光自身は倒幕の意志はまったくなかった。彼は尊王攘夷論は公武合体を実現し、幕政を改革して攘夷を実行すべしということであった。そのため過激な志士たちを鎮圧することでもあった。
 しかし志士たちの久光に寄せる期待が大きく討幕の口火を切ろうを計画していた。四月二十三日、志士たちは大阪を出て、伏見の寺田屋に入った。それを知った久光は腕利き剣士を送り思い止まらせようとしたが失敗し、斬り合いになり志士8名が死んだ。(寺田屋事件)
 志士らを鎮圧したあと六月に江戸へ入り、一橋慶喜が将軍後見役に、松平慶永が政事総裁職に就任。久光の国事周旋は成功し帰途についた。途中、生麦事件を起こしたが、委細にかまわず西上した。この事件は、翌年七月の薩英戦争に発展し、偏狭は攘夷論は紛糾されることになる。

関連の本関連の本・・・
●日本の青春 西郷隆盛と大久保利通の生涯 (著者/堂門冬二)
●江戸 人遣い達人伝 (著者/童門冬二)
●酔って候 (著者/司馬遼太郎)
●翔ぶが如く<総集編> (NHK大河ドラマ)
●五稜郭 (日本テレビ時代劇スペシャル)
●寺田屋騒動 (著者/海音寺潮五郎)
●西郷隆盛(2) (著者/海音寺潮五郎)
●西郷隆盛(3) (著者/海音寺潮五郎)
●西郷隆盛(4) (著者/海音寺潮五郎)
●西郷隆盛(5) (著者/海音寺潮五郎)
●西郷隆盛(6) (著者/海音寺潮五郎)
●西郷と大久保と久光 (著者/海音寺潮五郎)

メニューへ


−トップページに戻る−