伊藤博文 (1841-1909) 長州藩士

伊藤博文  天保十二年(1841)周防国熊毛郡束荷村の林十蔵の子として生まれ、山下新兵衛組下の足軽・伊藤直右衛門の養子となる。18歳のとき奉公先の人物の紹介で吉田松陰の21番目の弟子となる。安政五年(1858)江戸・麻布の藩邸に到着し、刑死した吉田松陰の改葬を行った。その後しばらく桂小五郎と行動を共にするようになる。文久二年(1862)久坂玄瑞や高杉晋作が結成した御盾組に加盟し、英国公使館を焼き討ちにする。
 文久三年(1863)伊藤俊輔は井上聞多ら四人とともに密航してイギリスに留学した。(日本最初の英国留学生)イギリスにあって、四国連合艦隊の攻撃計画を知り、イギリス滞在半年で帰国した。
 長州藩は禁門の変で痛打を受けうえに、下関海峡での英仏艦隊を攻撃したことへの報復として、英国ら四ヶ国連合艦隊が長州を攻撃を企てた。四日間の戦闘で長州側の戦闘能力は完全に破壊された。藩としては講和をはかるべく、高杉晋作と伊藤俊輔は四国艦隊との講和を結んだ。その時の賠償問題の幕府への転換や下関租借要求をうまく回避できたのは伊藤の機略といわれる。
 慶応元年(1865)高杉晋作らと共に30名の力士隊を手兵とし藩内を正論派で制した。その後、長崎で武器の購入に立ち回り、戊辰戦争に参加はしてないが陰ながら応援する。
 維新後、イギリスに学んだ伊藤は新政府で外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事等を務める。明治四年(1971)岩倉使節団の一員として欧米を歴訪する。その後、大久保利通の後継者となり、工部卿から内務卿に就任する。明治十八年(1885)初代内閣総理大臣に就任する。以後、第二次、三次、四次と内閣を組閣して国政を担い、明治最大の政治家をうたわれる。また、大日本帝国憲法の作成と発布等の功績を残す。明治四十四年(1909)ハルピンにおいて、韓国人の安重根によって暗殺される。

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