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安政五年(1858)六月十九日、日米修好通商条約をアメリカとの間に結んだ日本は、続いてイギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を締結した。いわゆる安政の五ヶ国条約で、アメリカとの通商貿易を応諾した以上、はかの諸国からの申し出を拒否することはできなかったのだ。
しかし、この幕府の開国の動きを、孝明天皇は許さなかった。自分の許可を得ずに開国を進める幕府に対して、天皇は、退位したいとまで言い出すほどの怒りを見せた。
そして八月八日、尊王攘夷の総本山である水戸藩に村して、「戊午の密勅」とよばれる勅状が出された。内容は水戸藩に攘夷の推進を促したものだった。
朝廷が幕府の頭越しに諸派に対して勅書を送るなどは、本来ありえないことだった。事態を重くみた大老・井伊直弼は取り締まりをはじめた。これをきっかけに、将軍後嗣問題以来の反井伊派への弾圧が行われ、安政の大獄とよばれる大弾圧事件となっていくのである。
このとき井伊の命を受けて上洛した側近の彦根藩士長野主膳と老中間部詮勝らは、尊攘派の志士や公卿の家臣を次々に捕縛し江戸に送り込んだ。
これら捕縛された志士たちに対しては、安政六年(1859)八月から十月かけて過酷な処分が行われた。死刑となつた者は8人。
安島帯刀(水戸藩家老) 切腹
茅根伊予之助(水戸藩士) 死罪
鵜飼吉左衛門(水戸藩士) 死罪
飯泉喜内(三条家家士) 死罪
橋本左内(越前藩士) 死罪
頼三樹三郎(儒者) 死罪
吉田松陰(長州藩士) 死罪
鵜飼幸吉(水戸藩士) 獄門
梅田雲浜は当然死罪のところであったが、獄中で病没していた。ほかに小林良典ら7人は遠島、池内大学ら13人が中追放、その他は所払、押込などといった処分を与えられた。
大獄に連座して処分された者は百余人にものほった。史上まれにみる大弾圧であり、これによって幕府は強化されたように思えたが、しかしそれよりも行き過ぎた処刑に対する反発のはうが人きかった。のちに、井伊直弼に対する「桜田門外」の暗殺が起こるのである。 |