会津戦争  慶応四年(1867)八月二十三日 白虎隊が自刃

  慶応四年(1868)八月二十一日、参謀の板垣退助(土佐)らに率いられた新政府軍は、国境の母成峠で会津側の守護隊を突破し、その勢いで会津若松へ攻め込んだ。
 会津藩では、戦闘要員のほとんどは国境の守備に回っていたため手薄になっていた。敵が市中に侵入したとわかると女性や子どもは鶴ケ城に入城した。しかし、戦力にもならないのに籠城するのはよくないと、入城しない女性は敵の辱めを受けるのを避け自害したもの達もいた。
 そして会津戦争の最大の悲劇が白虎隊の自刃であった。会津藩では、新政府軍の襲来に備えて、軍政改革が行われ、年齢別に四隊に分けられていた。玄武隊(50〜60歳)、青龍隊(36〜49歳)、朱雀隊(18〜35歳)、そして白虎隊(16〜17歳)。この四隊がまた身分別に三つに分かれた。
 このうち年少者による白虎隊は、正式な戦闘員とはみなされていなかったが、戦争最終段階になると、人手不足のために出陣が決まった。
 八月二十二日、士中二番隊の37人は、暴風雨に見舞われ、翌朝、新政府軍と戦闘になったが敗れて敗走した。リーダーの篠田儀三郎が20人ほどの隊士をまとめ、飯盛山を通って鶴ケ城に向かうことになった。しかし、山の中腹に出て見たものは炎につつまれた城の姿であった。昨夜から何も食べていないうえ、睡眠もとらずに戦闘を続けた彼らは一気に気力を落とした。そして19人が自刃したのであった。
 実際には、この時は城は燃えておらず落城してはいなかった。遠くからの光景であり、疲労と空腹で判断を誤らせることになった。

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