阿部正弘(1891〜57) 老中・福山藩主

阿部正弘  阿部正弘は、文政二年(1819)、福山藩主・正精の第六男として生まれた。正弘は幼少の頃から賢明の誉れが高く、武術では槍術と馬術を得意とした。文政九年に父が没し、三男の正寧が家督を相続して、備後福山十万石の大名になったが、生来病弱であったため、天保八年(1837)、弟の正弘に跡をゆずって、隠退してしまった。このとき、正弘わずか18歳。天保十一年に寺社奉行となり、さらに十四年には、25歳で老中についている。その後、天保の改革に失敗した水野忠邦が、一時、老中首席に返り咲いたことがあるが、その時期を除けば、正弘は、死ぬまで、苦難にみちた幕府政治を司った。
 江戸幕府は、ペリー来航という未曾有の危機に直面して対策に苦慮し、ぺりーの要求を受け容れるかたりとなった。その時の最高責任者が老中・阿部正弘であった。ペリー来航直後の六月二十二日、第十二代将軍家慶が病死し、さらに病弱な第十三代将軍家定の跡つぎ問題なども生じて、多事多端であった。
 ペリーは、アメリカ大統領の国書を手渡した際、再訪を約束して、いったん退去したため、幕府はともかく愁眉をひらいたが、このとき阿部正弘は、徳川斉昭のいうとおり、ひろく意見を求めようとした。譜代大名や幕府の役人だけではなく、外様大名や諸藩の藩士、さては町人にいたるまで、さまざまな意見を具申した。その上もっとも多かったのは、引延し策と、ある程度の受け入れは止むを得ないという説であった。そして、実際にも、引延し策を試みた後、ある程度アメリカの要求をのんだのであった。したがって、正弘のとった処置は、ほぼ拙論どおりであったといえよう。
 幕府がこれほど広く意見を求めたことは、従来の慣習を破るもので、国難にさいしての大英断ではあったが、他方、これをきっかけに政治論議がさかんになり、いわゆる処士横議の状態をもたらして、幕末の国論はいよいよ沸騰することになる。もはや、幕府だけの独断専攻では立ちいかない状態になっていたのである。
 阿部正弘は、このほかにもさまざま処置を講じている。海軍伝習所の設立や台場の建設、講武所の設立等の海防強化と軍備拡充や人材の登用である。勝海舟、川路聖謨、江川太郎左術門といった人びとが、小録のため従来ならとうてい就きえない重職をになうことになった。また、幕臣だけでなく、諸藩の陪臣も幕府の要職につけているから、それまでの幕藩体制で固まった人びとには汚すべき人材の用い方であった。
 安政四年(1857)病死する。39歳であった。

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