吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     貝殻一平(1)

■扇子が知らずに敵の鉄夫を助ける

<本文から>
 「されば。折入って、伺いたい儀がございまして。−ほかでもありませぬが、最前、御両所のお留守中に、ここへ、水を持って見えた女がござったが、ありゃ、ご老人たちの連れの者でございましょうか」
「ははあ。向うの母星に泊っておる、品のよい、お女中のことでござるか」
「はい」
「はははは。いや、ありゃ、こうでござるよ。其許を助けて、発地の原から、この宿へ運んで来た晩のことじゃ」
 と、ふたりは老人らしい温容に笑い皺をよせて、交々に、その夜の狼狽したさまを語り出した。−殊に、扇子が周密な注意を払って、療治を手伝ってくれたことを、心から感謝するように、つまびらかに話して、
「こっちどもは、ただここまで運びこんで来ただけのこと。それ以上の手当は、あのお女中の親切でごぎる。こんどお会いなされた折は、よく礼を申されたがよろしかろう」
 だが鉄生は、その僥倖と好意に感謝する前に、意外な人間から意外な恩をうけたことに、心のうろたえを感じないわけに行かなかった。−いや、扇子の方から、そんな再生の恩義をうけたことは、意外というよりも、むしろ心外といわなければならない。
「では、何と仰っしゃいますか」
 思わず肩を前へつきだして、
「−すると、拙者がここへ助けられて参った当夜、自分の傷口を縫ってくれたのは、あの婦人でございますか?」
「いかにも」
 と、痩せた方の老人は、大きくうなずいて、
「それのみでなく、急ぎの旅をのばして、薬飴門の面倒まで見てくれたのじゃ」
「むむ。…そうですか」
 彼は、低いうめきをのんで、黙然とうなだれた。もう、これ以上、深い話を聞く勇気もなく、老人たちに会釈をして床の上へ、身を投げた。
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■捕らえられた扇子を逃がした転

<本文から>
  「お支度なさい−」
 ひくい声であるが、彼女の勇気をたたくような、弾みをもったことばである。
 とたんに、ガチャッ、と駕をくるんである金網を剥ぐ音が、彼女のもつ天地をくつがえすよう に響いた。次に、とびr虜を開ける音がぴ−んと耳をうつ。
 「はやく!」
  何者か?
 疑うひまなどはなかった。
 いきなり、自分の腕くびを把った熱い手に引かれて、彼女のからだは、月光の大地へ、まろび出していたのである。
 「オオ、あなたは!」
 「シつ…」
 転は、手にかかえて来た合羽をひろげて、扇子のからだを、うしろから包むように着せた。
 「お逃げなさい! あとの殿は拙者がしてあげます。もし、唐橋門でとがめられた場合は、こ の門鑑を示して、千本屋敷へ忘れものを取りにまいると仰っしゃるがよい」
 「…あなたは、伊都の飯田で、私をとらえた、松平主税介様ではありませぬか」
 「そうです、この城内までは、主税介の名を偽って来たものです。しかし、もとより拙者は、幕府の走狗ではありませぬ」
 「お! それでは、勤王がたの」
 「待ってください。勤王の志士などと名のるには、少し恥かしい男ですから。……まあ偶然なご縁でしょう。あなたの危険を知ったので、この京都まで、送ってあげる気になったのです」
「送って?」
「ここは、京都です。江戸城を脱出して以来、あなたが目ざした彼岸ではないか」
「そうです!…夢ではないでしょうか」
「のがれる隙は今の一刻です。落ち着いて立ち退きなさい。…ふるえていますな。…ふるえていてはいけません」
「あまり嬉しくて、このからだが疑われるのでございます。どうぞ、ご本名をお聞かせくださいまし」
「いや」
「でも…」
「沢井転」
「転さま」
「早くおいでなさい。今のうちです…」
 竹の子笠に、所司代の門鑑。
 それを渡すと転は、石垣の楓に寄って、じつと、四方を見張っていた。
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■転は勤王とか攘夷とかいうもの以上に母を慕う

<本文から>
  彼らが愉快がって話す様子を聞くと、ゆうべ捕われて来た浪士たちは、三輪田剛一郎、建部健一郎、長沢真古登、大庭恭平などいう人々で、洛外等持院の足利家のぼだい寺から、尊氏以下三代の木像の首を抜いて、三条の碩へさらしものにした、木像兵首事件の下手人たちであるらしい。
 木像の首を梟けてどうするというのか?
 転には、その情熱は愛せるが、その稚気には眉がひそめられた。勤王家がわの気勢を昂げようとする意図はうなずけるが、その効果には疑問を抱かずにいられない。
 愛すべき壮士よ! 彼らもまた時代の幸福人だ。木像の首まで斬れる剣をおびている勤王家はうらやましい。
 転は同時に自分の孤独を感じる。−ああいう人々とも伍したくない、そして、幕府というものには彼ら以上の呪いをもっている自分がしみじみと寂実のなかに見出される。
 夕刻になると、黒谷の会津兵が来て、木像鼻首の志士たちを、ひとりひとり牢から出して受取っていった。
「師岡、とりみだすな」
「ばかをいえ。命はいつでも国家のために抛りだしてあるのだ」
 その、ちょっとの間には、志士たちが仮牢へ送られて来た時より悲壮な気が、ことばに流れた。
 で−ようやく夜になると静かになった。ことに転のいる二番牢は、牢ざやも堅固で、ほかの獄舎とも隔たっていた。
 かつては、この四角な灯のない閣のなかに、頼三樹、梅田裏浜、橋本左内なども、痛い床の味を膝ぶしに味わっていたであろう。転はこの両三年の間に、その人々の真撃な行動と悲壮な最後を眼のあたりに見て来た。そしてひとりの社会人として、後もつよい衛動をうけた。敬虔の念をもった。それは余人と少しも変わりはない。
 だが、振顧って自分を見ると自分のまえに、勤王とか攘夷とかいうもの以上な、大きな目的が否まれない力をもって伝わっている。
 それは母に会うことだった。
 生を享けて、いちども相見たことのない母に会いたいという念が、何よりもつよく本能を占めている。
 そのねがいをもって、いまだにその願いを達しない彼に、また一つの希望がふえた。それは、もういちど、扇子に会いたいと思う悩みであった。
 この二つの本能的な希望がなければ、転も、木像の首を斬る純真な勤王家になりうるかもしれないと思う。しかし、同時に彼は人間の生き甲斐を失うかもしれない。
 で、近ごろ転は、夜になると、無意識のうちに破獄の手段を考えている…。今も、彼の空想は、そこへ落ちかけていた。
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