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          一坂太郎-吉田松陰と高杉晋作の志

■松下村塾の特徴は近所の子供たちが中心

<本文から>
 驚かされるのは、歴史上に名を留めた塾生の数だけではありません。
 最も驚嘆すべきは、彼らの大半が松下村塾の近所に住む、ごく普通の少年に過ぎなかったという点です。
 幕末は、比較的自由な学風を持つ、私学の台頭を許した時代でもありました。官学の形骸化された学問だけでは、目まぐるしく変動する時の勢いに、対応し切れなくなったのです。
 松下村塾と並び称される幕末の私塾に、大坂の蘭学塾適塾(緒方洪庵主宰)と、九州日田の漢学塾威宜園(広瀬淡窓主宰)があります。
 それぞれの塾の成り立ちや性格を、ここで比較することはしませんが、いずれも、幕末から明治にかけ、多くの人材を世に送り出した点では、松下村塾に共通するものがあります。
 しかし、この二つの私塾が松下村塾と決定的に異なるのは、適塾と威宜園には全国各地から選りすぐりの「秀才たち」が集まってきたのに対し、松下村塾は「近所の少年たち」が中心だったという点ではないでしょうか。
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■松陰は自分でやってみせるから影響を与えた

<本文から>
 松陰はなぜ、そこまで塾生たちに影響を与えることができたのでしょうか。
 それは、松陰がその教えを自分自身で実行して見せたからでしょう。自分でやって見せる先生だったのです。
 萩は城下町ですから、当時は沢山の学者がいました。しかし、いくら立派な意見を吐いても、机上の空論では、少年たちの心には届かないのです。
 松陰のもとに通ってきていた塾生たちの年齢は、大半が十代の後半。現代で言うなら、中学生か高校生くらいの年代です。
 少年というのは感受性が鋭く、純粋で、常に何が「本物」で、何が「偽物」なのかを真剣に知りたがっています。それだけに、研ぎ澄まされた喚覚も持っています。だから、机上の空論を玩んだところで、すぐに「偽物」は見抜かれるでしょう。
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■松陰はきわめて丁寧な物腰で塾生に接した

<本文から>
 渡辺の回顧談払よると、松陰はきわめて丁寧な物腰で塾生に接し、大変優しかったそうです。年長者に対しては、大抵「あなた」と呼び、年少者に対しては、「おまへ」などと呼んでいました。
 また、松陰の授業風景について「先生の坐処定まらず、諸生の処に来りて、そこにて教授す」と、語っています。
 つまり、塾内における松陰の座る定位置というものがなく、塾生たちがいる長机の間に入ってきて、講義や談論をしたというのです。
 あるいは、これは天野御民という別の塾生の回顧録にあるのですが、十六、七歳の馬島春海と滝弥太郎が入門を希望した時のこと。
 二人に対し松陰は、
「教授は能はざるも、君等と共に講究せん」
 との言葉をかけました。
 教えることはできないが、君たちと共に勉強してゆこうというのです。
 これらの証言を見てゆくと、松陰が松下村塾で目指したのは、童謡「めだかの学校」のような雰囲気だったらしい。
 どれが生徒か、先生か分からない。
 皆で楽しくお遊戯している。
 松陰は塾生を皆、「同志」として遇したのです。
 それでも塾生たちは、松陰を心から尊敬しているから、師弟間の秩序は決して乱れませんでした。いくら先生が自分たちの方に下りてきても、塾生たちは緊張を緩めない。
 師弟間の垣根は、こうした信頼関係が成り立った場合、設ける必要はないのです。「めだかの学校」は、教える者と、教えられる者の、最も理想的な関係と言えるでしょう。
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■ギャグを言う橙陰

<本文から>
 松陰もまた人間ですから、さまざまな顔を持っています。その中には明治以降、松陰が神格化される中で、いつしか忘れ去られてしまった側面もあります。あるいは故意に抹殺された側面もあります。
 ギャグを言う松陰なども、そんなひとつではないかと思います。いくつかの例を、史料や逸話から見てみましょう。
 野山獄に投じられた松陰に、兄から熊の敷皮が差し入れられたことがあります。それに対し松陰は礼状で、
 「能州が寅のものになった」
と述べます。
 松陰の通称は「寅次郎」だったからです。
 あるいは同じく兄が、書籍と一緒に果物を差し入れてくれたことがありました。兄の添え状には、その数は九つとなっていましたが、実際は十あった。
 そこで松陰は返事に、こう記します。
 「その実十あり、道にて子を生みにしか」
 途中で果物が子供尾を生んだらしいというのです。
 またあるいは、松下村塾の増築工事が行われた時のこと。
 梯子に上り、壁土を塗っていた品川弥二郎が、過って土を落っことし、それが松陰の顔面を直撃します。ひたすら恐縮する弥二郎に対し松陰は、
 「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものではない」
と言ったそうです。
 時には議論が白熱する松下村塾にあって、ギャグは欠かせなかったのでしょう。議論を戦わせ対立すると、どうしても険悪な雰囲気が生まれることだってある。そんな時、さりげなく、邪魔にならない程度のギャグが出ると、雰囲気が和むものです。
 松陰にとってギャグとは、そんなガス抜きの意味があったのではないかと思うのです。
 松陰の教えを受けた桂小五郎や高杉晋作なども、現代人から見ると信じられぬほど難解な漢文の論策などを二十代の若さで書いてしまう。その一方で、芸者をはべらせ、三味線を弾いて即興の都々逸などを歌ってみせる側面もそなえています。
 こうした硬軟合わせ持つ者が、一流の人物と言えそうです。的確なところでギャグが言える松陰もまた、門下生たちにとっては魅力的に映ったことでしょう。
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■野山獄で晋作は評価は後世に委ねるとした

<本文から>
 獄中で晋作は、自分の行動がいつも周囲の者たちに誤解を与えてしまうことを、悩んでいました。
 「直言直行、傍若無人」という性格が原因なのは承知しているのですが、しかし、それを気にしていては、大きな仕事はできません。このたびの上方への出奔についても、反省はしつつも、
「しかれども直言直行、傍若無人、身命を軽んずるの気塊あればこそ、国のために深謀遠慮の忠もつくさるべし」
 と述べています。
 しかし、「志」を遂げる途中で湧き起こる「嫌疑」や「誘議(非難)」に気を取られ、行動を起こすのをためらうようでは、まだまだ未熟な証しです。
 晋作にそれを気づかせてくれたのは、菅原道真と屈平という、歴史上の人物でした。
 宇多天皇に仕えた道真は、藤原氏の謀略により九州太宰府に左遷され、それでも皇室を思いながら無念の死を遂げました。屈平は中国・楚の時代、讒言のため失脚し、石を懐に入れて洞羅の江に身を投じた忠臣です。
 いずれもその忠義は報われることなく、理不尽な最期を遂げねばなりませんでした。
(中略)
 そして、末尾の、評価は後世に委ねるという意味の一節が、晋作の達した境地でした。
 いまは遺言のため不遇のまま死んでも、必ずや後世に「歴史」が自分の行動を評価してくれるに違いない。獄中で晋作はそう信じ、この境遇に耐えようと、歯を食いしばります。
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■勝算を超え志に殉じた下関襲撃

<本文から>
 憤慨した晋作は、尻込みする同志たちに向かい、
 「真があるなら今月今宵、あけて正月だれも来る」
 と歌い、出撃します。本当にやる気があるなら、先が見えないいまこそ立ち上がれと、訴えたかったのです。
 ところが、晋作たちが最初に襲撃した下関新地の藩会所の蔵には、金銭も食料も残っていませんでした。万一の場合を考え、「俗論派」藩政府が、他所に移していたのです。
 この一点を見ても、挙兵前の下調べが不十分だったことは明らかです。
 晋作が山口矢原の大庄屋吉富藤兵衛(簡一)に、
 「少々金入用にござ候ところ、中々金を出し候者も少なく困窮つかまつり候」
等と記した密書を発し、軍資金の援助を乞うたのが、挙兵から十二計後の十二月二十七日です。
 しかも晋作は、密書を持たせた使者に刀を与え、吉富が万一断れば斬り捨て、お前もその場で自害せよと、かなり強引な談判をやるよう命じたようです。
 そして前述のように、傍観を続けた奇兵隊はじめ諸隊が晋作に呼応するのは、挙兵からなんと三週間も後のことでした。
 いずれも「天才的革命家」の行動とするなら、準備不足も甚だしく、お粗末過ぎて到底納得がゆくものではありません。
 死して不朽の見込みあらば
 では私は、晋作の挙兵を評価しないのかというと、それは違います。
 最初から成算など、考慮しなかったと言っているだけです。
 成算のない行動と言えば、ただの「無謀」と片付けられてしまいそうだが、それも違います。
 かつて、「安政の大獄」に連座した吉田松陰は晋作に、
 「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。僕の所見にては、生死は度外におきて、ただ、言うべきを言うのみ」
 との死生観を授けて、刑場の露と消えました。
 晋作はこの教えに従い、「機」を見た瞬間、成算の有無は度外視し、戦いに真っ先に身を投じて見せることで、決意を示そうとしたのです。
 挙兵し、たとえ討ち死にしても、晋作の志は「不朽」のものとなり、傍観を続けた者たちを奮起させるはずです。
 晋作の屍を乗り越えて、誰かが志を継いでくれるはずです。
 もし、晋作が命がけでそこまでやっても、何も感じない長州藩や同志たちなら、晋作は生きている価値がなかったのでしょう。
 これが、晋作がたった八十人の挙兵によって見せようとした「長州男児の肝っ玉」なのです。
 幕府に最後まで抗議し続けた松陰も、四カ国連合艦隊に激しく抵抗した長州藩も、そして八十人で挙兵した晋作も、すべてに通じるのは、捨て身になってでも時代を動かそうしする志です。
 それは現代の日本に、どの程度受け継がれているのでしょうか。
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