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          河合敦−吉田松陰と久坂玄瑞

■松陰は大いなる先導者、弟子も短いながらも充実した人生をおくった

<本文から>
 松陰がおこなっていたのは、教育といった範時には到底おさま品らないものであったというより、そもそも彼は教育家ではなかった。ひたすら実践者であり、大いなるアジテーターであった。なぜなら、攘夷や倒幕をとなえるだけでなく、自らこれを実行に移そうとし、さらには、門弟たちに同志になることを激しく迫ったからである。
 純粋に朝廷や国家のため考え、己の生死を度外視して行動した松陰。誠の心をもって接すれば、相手は必ず応えてくれると信じた松陰。そんなひたむきな男だったからこそ、彼に接した若人たちは、たちまちにして感化されてしまったのであろう。
 そんな松陰に最も愛され、その妹・文芸とし、義弟として松陰を補佐したのが久坂玄瑞であった。松陰は玄瑞のことを「志状気鋭」「吾が藩の少年第一流」と讃え、その将来に大きな期待をかけた。玄瑞もそれに応えるべく、幽閉されている松陰の耳目となって、江戸や京都の最新の情勢を知らせ、尊撰活動に邁進していった。だが、大老・井伊直弼による攘夷派への大弾圧が始まると、松陰はその暴虐を厳しく憎み、手下となっていた老中・間部詮勝の要撃を声高にとなえ、ついには長州藩に対し「襲撃のための武器を貸してほしい」とまで訴えたのである。
 驚いた藩は、ただちに松陰を牢獄に収監した。それでも松陰は、獄中から間部暗殺を弟門人たちはかかわりを恐れて離れてしまった。そう、松陰は門下生から見捨てられたのである。
 これに対して松陰は、「君たちと僕の考え方は違う。君たちは功業をなすつもり、僕は忠義をなすつもり」と非難し、門弟に次々と絶交状を突きつけていった。そして、「僕が死んでみたら、皆は変わってくれるだろうか」と悲痛な言葉を残し、本当に幕府によって処刑されてしまったのである。
  命を奪われる直前、松陰は門弟に宛てて次のように認めた。
 「君たちは僕の志をよく知っているはずだ。だから僕の死を悲しむ必要はない。その死を悲しむことは、僕を知ることにおよばない。どうか僕の志を継いで、大きく伸ばしてほしし」
 自分の志を継げということはすなわち、天朝のために命を投げ出せということ。それを門弟に遺言するなど、断じて教師のなすところではない。ゆえに松陰は、教師などではなく、大いなる先導者だったのである。
 師が幕府によって不本意な死を強いられたとき、久坂玄瑞の心から「医師として民のために尽くそう」という考えは瞬時に消え失せた。それは、玄瑞だけではなかった。松陰が皆に先駆けて死んでみせたことにより、塾生の多くに劇的な変化が起こり、過激な志士に変貌を遂げる。そう、その遺志が引き継がれることになったのである。
 とくに玄瑞はすさまじい行動力によって長州一藩を勤王へと転換せしめ、尊攘の先駆けとして大いに日本を揺さぶったうえで、禁門の変に敗れて己の命を散らせたのである。
 このような壮絶な最期を遂げたのは、玄瑞だけではなかった。松下村塾の主たる門弟の多くは、二十代で討ち死にや自殺という非業の死を遂げた。すべては、松陰という男に出会ったがゆえの末路であった。おそらく松陰と出会わなければ、彼らは平穏な一生を送っていたことだろう。
 だが、もしそうであったなら、果たして彼らは幸せだったのか。
 私は、そうは思わない。松陰と邂逅したことで、彼らは短いながらも極めて充実した生を送ることができたのではないか。私はそう信じている。
 松陰と玄瑞が没した後、その思想を継承して幕府軍を敗北に追い込んだ高杉晋作−彼もまた、明治の世を見ないまま労咳のために生を閉じた一人である。そんな晋作は臨終のさい、「面白きこともなき世を面白く」とまで言って、まもなく息絶えた。
 だが、この言葉にこそ、松陰とその門下生たちの生き様が端的に表われているのではなかろうか。つまり彼らは、面白くもない世の中を、自分たちの手で面白く変えようとしたのである。
 人の幸せは、生きた時間の長さには比例しない。いかに熱く生きたかによる。
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■野山獄の状況

<本文から>
 松陰が入った野山獄には、全部で十一人の囚人が収監されていた。
 泥棒や悪党だけでなく、家族がその粗暴さや乱行にたまりかね、藩庁に頼み込んで強制的に入牢させられた者も少なくなかった。
 しかも、一度獄に入ると一生外へ出ることが叶わぬといわれており、じっさい、大深虎之允などは、在獄四十九年という長きにおよび、その他も長期収監者が大半だった。
 それに、現代のように囚人たちには人権など認められていないから、防火のために暖炉もなく、明かりも制限されていた。だから牢内はいつも薄暗くて寒々しい状態であった。
 こうした苛酷な環境のなかに放り込まれ、ほとんど外界へ出る可能性がないことかち、囚人たちは絶望のあまり意気消沈したり、自暴自棄になっていた。
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■自分が誠心誠意、相手に尽くせば、人は動く

<本文から>
 しかも、いざ松陰の話を聞いてみると、これがなんとも面白いではないか。そのため、数人がその話を毎回楽しみに待つようになり、ついには囚人全員が、この二十五歳の青年に感化されてしまったのである。わずか数カ月間の出来事だった。
 松陰は、囚人たちを前にして学問の大切さを懇々と説いたが、松陰に心開いた囚人たちは、「再び世に出る希望のない私たちが、いったい学問などして何の役に立つというのでしょうか」と真撃に問うてきた。
 これに対して松陰は、
 「あなたがたは、このまま獄中で朽ち果てる人たちではない。いまより努力して学問を修め、かつ、懸命に徳を積んでいけば、きっと釈放され、将来は大事を成し遂げるに違いない」
 そう断言したのだった。
 「この人は、私たちに世辞を言っているのではない。本気で自分たちに期待をかけてくれているのだ!」
 囚人たちは、そう思った。これまで人をだましたりすかしたりしてきた悪党だからこそ、また、家族や親族からつまはじきにされてきた者たちだからこそ、松陰の本音が染み入るように実感できたのである。
 この松陰の期待を受けて、囚人たちの向学心にますます火がともり、皆が必死に勉学に励むようになったという。
 松陰は、かつて次のように述べている。
 「余に一つの護身の符あり。孟子日く『至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり』と。それこれのみ。諸友、それこれを記せよ」
 自分が誠心誠意、相手に尽くせば、
 「人は必ず動く」
 これが、吉田松陰の信念であった。
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■囚人全員を感化させた松陰

<本文から>
 どんなに凶悪に見える人間であっても、じつは善人なのであつて、一過性の病にかかっているだけなのだから、それを治してあげさえすればよいのだ、そう松陰は信じ切っていた。
 こうした松陰の人間に対する信頼は、前に述べたように、清貧の杉家で培われたものだと思われる。
 ともあれ、囚人全員を感化させた松陰は、ある日、囚人の吉村善作と河野数馬に対し、
 「あなたがたにはすぐれた詩文の才がある。どうかこの私を弟子にしてくれませんか」
 といきなり切り出したのである。
  これを二人が承諾したため、松陰は彼らから俳句を学び、他の囚人にも俳譜を勧めたので、やがて獄中で句会が開かれるようになった。
  すると今度は富永有隣に
 「あなたの書体はすばらしい。どうか美しい字の書き方を教えてください」
 と頼み込んだのでぁる。
 この有隣という人物は、教養があったものの非常に高慢な男で、人を高みから見下ろして嫌味ばかり言う嫌われ者で、周囲や親族の顰蹙を買って島流しになった後、この野山獄に収監されていた。
 だから、それまで鼻つまみ者として忌み嫌われてきた彼にとつて、松陰の言葉は涙が出るほど嬉しかったろう。
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■取り柄がないような人間でも、長所を見つけてそこを伸ばす

<本文から>
 松陰の人材育成の秘訣は、門弟の長所を見抜いて、それを相手に教えてやることだと断言してもよいだろう。
 全く取り柄がないような弟子であっても、必ず一つは良いところを探し出し、その長所をはっきりと本人に告げ、その才能を自覚させたうえで、それを伸ばそうとしたのである。
 松陰は言う。
 「人には賢い者も愚かな者もある。しかし、全く才能がないという人間は存在しない。一人一人の生まれ持った力や個性を良い方向へ伸ばしていってやれば、きっと将来は国家の役に立つ人間になるのだ」
 現代にも、彼が門弟を讃えた言葉が多く残されている。
 たとえば、久坂玄瑞に対しては、「才あり気あり、願々として進取、僕輩(私)の栽成(育成)するところにあらず」と褒め、高杉晋作については「識見気晩他人のおよぶなく、人の支配を受けざる人物」と讃えている。
 「利助大いに進む。なかなか周旋屋(政治家)になりそうな」と言われた利助とは、のちの総理大臣伊藤博文である。
 「事に臨んで驚かず、少年中稀にみる男子」と褒められたのは、のちに内務大臣となった品川弥二郎であった。
 私たちは、他人の欠点はすぐに気がつくが、長所というものはなかなかわからぬものである。いったい、松陰はどのようにして弟子たちの才能を探しあてたのだろうか。
 この疑問に対して松陰は、
 「人の精神は目にあり。ゆえに人を観るには目においてす」(『講孟余話』)
と答えている。
 相手の目をよく見れば、その人の智愚動静は一目瞭然なのだという。つまりは、一人一人を徹底的に観察することが大事なのだということだろう。とにかく常に相手の言動を見続ける。すると自ずから、その子供の良さが見えてくるというのである。
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■井伊直弼暗殺計画と、松陰の狂気

<本文から>
 そうした状況のなかで、松陰は、水戸藩や薩摩藩が井伊大老の暗殺を計画しているという噂を聞く。すると、いても立ってもいられなくなり、十一月六日、先の周布政之助に宛てて一書を差し出したのである。
 そこには、薩摩藩において井伊大老の暗殺計画があることを告げ、「私共、時事憤慨、黙止しがたく候問、連名の人数早々上京仕り、間部下総守(詮勝)、内藤豊後守打果し、御当家勤王の魁け仕り、天下の諸藩に後れず、江家(毛利家)の義名末代に輝かし仕り候様仕り度候。此の段、御許容を遂げられ下され候様、願ひ上げ奉り候」と記されてあった。
 安政の大獄を黙止することができないので、盟約した十七名の者たちと上京して、志士たちを捕縛している老中の間部詮勝らを討ち果たし、勤王の先駆けをしたいので、この挙を藩に許してほしいというのだ。
 さらに同日、前田孫右衛門を通じて藩庁に、「クーボール(軽便速射砲)三門、百目玉簡(大砲)五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目貸し下げ」てほしいと願っている。もちろんそれは、問部らを要撃するための武器・弾薬であった。
 同時に松陰は、父や兄など親族に対し、上京して間部を襲撃することの、詫び状を認めている。本気であった。
 これまで周布政之助は松陰を信頼し、その門弟たちを支援、抜擢してきたが、この書簡に接して 「さては松陰は狂したか!」と仰天した。
 もしこのまま松陰一派の所業を放置していたら、弟子とともに挙兵するのは間違いなく、そんなことを藩が容認すれば、このご時勢である、長州藩も決してタダでは済まないだろう。井伊大老の怒りにふれて御家を取りつぶされてしまう可能性だってある。
 そこでやむなく周布は、松陰を緊急避難的措置として再び野山獄へ収監することにしたのである。
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■吉田松陰の非業の死

<本文から>
 五月二十五日、雨が降るなか、松陰を乗せた駕籠は江戸に向けて萩を旅立っていった。
「江戸に行けば、生きて再び見えることはできぬだろう」と予感した玄瑞は、途中、松陰の駕籠を奪う計画を立てたが、同志の説得により、最終的にこれを断念した。
 松陰は、伝馬町牢屋敷に収監され、同年七月九日より取り調べを受けた。とくに詳しく尋問されたのは、安政の大獄で逮捕された志士・梅田雲浜との関係であった。
 幕府は当初、松陰をそれほどの大罪人とは認識しておらず、処刑するつもりはなかったようだ。松陰も、天性の楽天家だったから、やはり殺されるとは思っていなかった。
 松陰の取り調べはあっけなく終わった。
 ところが、である。取り調べの場において、松陰はとんでもないことを口走ってしまう。
 役人が退出させようとしたときに「僕には死に値する二つの罪がある」と言い、老中・間部詮勝の要撃計画を自白したのである。
  サッと、役人の顔色が変わった。
 「この者は、大罪人ではないか……」
 室内の空気が急速に変わっていくのがわかった。松陰は大きな勘違いをしていた。自分が呼ばれたのは、この事実を問いただすためと思っていたのだ。
 そこで萩を立つ前から、松陰は幕更に向かって江戸幕府の弱腰外交について強く非難し、
 「このような態度を列強諸国に取り続けていけば、やがて国家は立ち行かなくなってしまうだろう。これを是正させるためには、外交責任者たる老中間部を殺すしかないと思った」と堂々と吐露することで、その考えを改めさせようと考えていたのだ。
 松陰は、あまりに純粋すぎた。要撃計画は心から国の行く末を憂いてのことであり、実行に移したわけではないから、まさかこれで自分が死罪に処せられるはずもないだろうとタカをくくっていたのかもしれない。
 むしろ、この大胆な計画を告げることで、幕閣に対して危機意識をあおり、対外政策を改めてもらおうと真剣に意図したのである。松陰はこれについて出立前から幕府の「至誠を験す」と称していた。己の国を想う気持ちが、必ずや幕府の役人にも通ずると思い込んだところに、この人の純粋さと甘さがあったといえよう。
 まだ、大老の井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が発生する一年前のことであり、下級藩士による幕閣の暗殺などといった大それた計略は、信じがたい蛮行に思えた。取り調べは三回実施され、幕府は松陰を釈放せず、最終的に遠島に処することに決定した。
 松陰もそれを覚悟した。
 ところが、である。
 松陰の自供書を眼にした大老の井伊直弼が、この大胆無礼な松陰の企てをひどく憎み、遠島の文字を「死罪」と改めてしまったのである。
 かくして松陰は、処刑されることになった。楽天家の松陰も、さすがにその雰囲気を察し、自分の命運を認識するようになった。
 親思ふ こころにまさる 親ごころ
 今日の音づれ 何ときくらん
 これは、安政六年十月二十日に詠んだ歌だといわれる。
 「もし自分が殺されることを知ったなら、老親の嘆きはいかばかりか」
 それを心配した内容になっている。なんとも悲痛で切ない歌である。
 松陰は両親に、自分は必ず元気で萩に帰ってくるよと約束していたが、それもついに叶わなくなった。
 いよいよ処刑されると決まった二十日過ぎから、松陰は家族や友人に宛てて永訣書(清書)を認め、『留魂録』を作成した。
 そのなかで松陰は言う。
 「どんなに短く一生を終える人間のなかにも四季が備わっているものである。僕は三十台で死ぬが、そんな僕にも四季はきっとあるのです。たとえ十歳で死ぬ子にも、四季は備わっているのです。花を咲かせ、実をつけているのだ。僕の場合、それがしいな(中身の無い実)なのか、それとも実がぎっしり詰まった栗なのかはわからないけれど、もし同志が僕を憐れんでその志を受け継いでくれるなら、その種子は絶えることなく、毎年実り続けるだろう。同志よ、これをよく考えてほしい」
 かくして十月二十七日、伝馬町の牢獄のなかで、首を射ねられて終わったのである。
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■京都進軍を反対した久坂玄瑞

<本文から>
 すると玄瑞が口を開いた。
 「もちろん、主君の汚名をそそぐため、武力に訴えることはもとより覚悟しています。なれど時機は到来しておらず。まずは朝廷に嘆願を重ねるべきではありませぬか。こちらから戦闘を開始するは、我らの素志ではないはず。それに、また世子である毛利定広公も来着しておりません。ぜひ世子の到着を待って、しかるのち、進撃すべきでしょう」と二十三歳年上の来島の意見に反対をとなえたのである。
 対して来島は、「世子の到着を待ってから軍の進止を決定するのは、家臣として忍ぶべからざるところであろう。到着される前に断然進軍して、君側の肝をはらうべし」と激昂した。
 だが玄瑞はさらに食い下がり、「いま進軍して京都へ乱入しても、我が軍に後援はない。それに、進撃の準備ができておりませぬ。必勝の計算なく軍を動かすべきではありません。しばらく戦機が熟するのを待つべきです」と述べた。
 すると来島は玄瑞を指さし、「卑怯者!」と叫んだ。そして玄瑞に向かい、「命を惜しんで躊躇するなら、お前はここにとどまるがよい。あるいは、東寺の塔へ上って俺が鉄扇をもって賊軍を粉砕するのを眺めておれ。これからただちに進撃して本分を尽くし、君側の奸を打ち払う!」と怒髪天をつく勢いで激怒し、席を立ってその場から去ってしまったのである。
 来島が去った後、軍議の場には沈黙が流れた。しばらくして玄瑞は、最年長の真木和泉(久留米藩士で熱烈な専横家)に向き直り、「あなたの意見は」そう尋ねた。
 すると真木は姿勢を正して玄瑞を見つめ、「来島君に同意す」と告げたのである。これによって、即時の進撃が決まった。
 これ以上の反論はもはや無駄である。そう認識した玄瑞は、もう何も言わなかった。
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