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<本文から> 松陰がおこなっていたのは、教育といった範時には到底おさま品らないものであったというより、そもそも彼は教育家ではなかった。ひたすら実践者であり、大いなるアジテーターであった。なぜなら、攘夷や倒幕をとなえるだけでなく、自らこれを実行に移そうとし、さらには、門弟たちに同志になることを激しく迫ったからである。
純粋に朝廷や国家のため考え、己の生死を度外視して行動した松陰。誠の心をもって接すれば、相手は必ず応えてくれると信じた松陰。そんなひたむきな男だったからこそ、彼に接した若人たちは、たちまちにして感化されてしまったのであろう。
そんな松陰に最も愛され、その妹・文芸とし、義弟として松陰を補佐したのが久坂玄瑞であった。松陰は玄瑞のことを「志状気鋭」「吾が藩の少年第一流」と讃え、その将来に大きな期待をかけた。玄瑞もそれに応えるべく、幽閉されている松陰の耳目となって、江戸や京都の最新の情勢を知らせ、尊撰活動に邁進していった。だが、大老・井伊直弼による攘夷派への大弾圧が始まると、松陰はその暴虐を厳しく憎み、手下となっていた老中・間部詮勝の要撃を声高にとなえ、ついには長州藩に対し「襲撃のための武器を貸してほしい」とまで訴えたのである。
驚いた藩は、ただちに松陰を牢獄に収監した。それでも松陰は、獄中から間部暗殺を弟門人たちはかかわりを恐れて離れてしまった。そう、松陰は門下生から見捨てられたのである。
これに対して松陰は、「君たちと僕の考え方は違う。君たちは功業をなすつもり、僕は忠義をなすつもり」と非難し、門弟に次々と絶交状を突きつけていった。そして、「僕が死んでみたら、皆は変わってくれるだろうか」と悲痛な言葉を残し、本当に幕府によって処刑されてしまったのである。
命を奪われる直前、松陰は門弟に宛てて次のように認めた。
「君たちは僕の志をよく知っているはずだ。だから僕の死を悲しむ必要はない。その死を悲しむことは、僕を知ることにおよばない。どうか僕の志を継いで、大きく伸ばしてほしし」
自分の志を継げということはすなわち、天朝のために命を投げ出せということ。それを門弟に遺言するなど、断じて教師のなすところではない。ゆえに松陰は、教師などではなく、大いなる先導者だったのである。
師が幕府によって不本意な死を強いられたとき、久坂玄瑞の心から「医師として民のために尽くそう」という考えは瞬時に消え失せた。それは、玄瑞だけではなかった。松陰が皆に先駆けて死んでみせたことにより、塾生の多くに劇的な変化が起こり、過激な志士に変貌を遂げる。そう、その遺志が引き継がれることになったのである。
とくに玄瑞はすさまじい行動力によって長州一藩を勤王へと転換せしめ、尊攘の先駆けとして大いに日本を揺さぶったうえで、禁門の変に敗れて己の命を散らせたのである。
このような壮絶な最期を遂げたのは、玄瑞だけではなかった。松下村塾の主たる門弟の多くは、二十代で討ち死にや自殺という非業の死を遂げた。すべては、松陰という男に出会ったがゆえの末路であった。おそらく松陰と出会わなければ、彼らは平穏な一生を送っていたことだろう。
だが、もしそうであったなら、果たして彼らは幸せだったのか。
私は、そうは思わない。松陰と邂逅したことで、彼らは短いながらも極めて充実した生を送ることができたのではないか。私はそう信じている。
松陰と玄瑞が没した後、その思想を継承して幕府軍を敗北に追い込んだ高杉晋作−彼もまた、明治の世を見ないまま労咳のために生を閉じた一人である。そんな晋作は臨終のさい、「面白きこともなき世を面白く」とまで言って、まもなく息絶えた。
だが、この言葉にこそ、松陰とその門下生たちの生き様が端的に表われているのではなかろうか。つまり彼らは、面白くもない世の中を、自分たちの手で面白く変えようとしたのである。
人の幸せは、生きた時間の長さには比例しない。いかに熱く生きたかによる。 |
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