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<本文から> 鷹山の跡目は、重定の実子・治広が継ぎ、そのあとの十一代は、治広の甥で垂定の孫にあたる斉定が継いだ。鷹山は、いわは米沢藩の藩政改革を断行するためにだけ、上杉家を継いだようなものであったが、何が鷹山をして、この責務に耐えさせたのだろうか。
−極言すれは、それは教育であった。
幼くして秋月家で受けた質素倹約の教育、養子になるにあたって三好善太夫から受けた、養子としての心構えを説いた訓戒。そして少年時代から青年期にかけて、鷹山をとりまいていた樽役や側近の大いなる薫陶が、鷹山という一代の名君を生み出した。
藩政改革が一朝一夕に成果をあげえぬように、トップもまた一日や二日では速成されない。やはち、それぞれに見合った歳月を要する。
鷹山にもっとも早く注目したのは、藁科松伯であった。もし、松伯が米沢藩の桜田屋敷にいなけれは、鷹山の人となりも大きく変わっていたにちがいない。
藁料松伯は元文二年(一七三七)、米沢藩の中級医「外様法体」藁料周伯の嫡子として江戸に生まれている。先に見た尾張藩主・徳川宗春が、蟄居する四年前であった。
松伯は父の病死により、十一歳で家督(五人扶持三石)を相続した。 |
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