その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          加来耕三 「上杉鷹山 危機突破の行動哲学」

■鷹山が責務に耐えさせたのは幼きころの教育にある。

<本文から>
鷹山の跡目は、重定の実子・治広が継ぎ、そのあとの十一代は、治広の甥で垂定の孫にあたる斉定が継いだ。鷹山は、いわは米沢藩の藩政改革を断行するためにだけ、上杉家を継いだようなものであったが、何が鷹山をして、この責務に耐えさせたのだろうか。
−極言すれは、それは教育であった。
 幼くして秋月家で受けた質素倹約の教育、養子になるにあたって三好善太夫から受けた、養子としての心構えを説いた訓戒。そして少年時代から青年期にかけて、鷹山をとりまいていた樽役や側近の大いなる薫陶が、鷹山という一代の名君を生み出した。
 藩政改革が一朝一夕に成果をあげえぬように、トップもまた一日や二日では速成されない。やはち、それぞれに見合った歳月を要する。
 鷹山にもっとも早く注目したのは、藁科松伯であった。もし、松伯が米沢藩の桜田屋敷にいなけれは、鷹山の人となりも大きく変わっていたにちがいない。
 藁料松伯は元文二年(一七三七)、米沢藩の中級医「外様法体」藁料周伯の嫡子として江戸に生まれている。先に見た尾張藩主・徳川宗春が、蟄居する四年前であった。
 松伯は父の病死により、十一歳で家督(五人扶持三石)を相続した。 

■藩政改革の推進のため忍耐強く藩士に説く遠回りの方法

<本文から>
  藩政改革の推進は、上杉家の家格の破壊につながりかわない。伝統を守るためにも、新藩主の方針には賛成できないというもの−鷹山および改革派は、藩内で孤立した。
 こうした閉塞状況において、戦国武将に見られるリーダーシップがあれは、己の才覚と実力を顧みに断固、初心を貰徹するところだが、いかんせん鷹山は、十九歳と年齢も若く、当然のことながら、キャリア、実績にきわめて乏しかった。
 人は正論であれは、したがうというものではない。多くは発言者の信用度に、敏感に反応を示すものである。高邁かつ素晴らしい論調であろうとも、鷹山のごとく無名の新藩主が主張するかぎりは、受け入れる衆人はまずない、と知るべきであろう。
 したがって鷹山はこの場合、忍耐強くただひたすら藩士たちを説きつづけ、可能なかぎりの率先垂範をもって、少しでも全体をとりまく不信の雰囲気を変えていくしかなかった。
 力押しではなく、何事も話し合って、徹底的に議論するなかで納得を得る。一見、遠回りの方法を余儀なくされたのだが、後世から見て、これがかえって鷹山に幸いした。

メニューへ


トップページへ