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          海音寺潮五郎−中国英傑伝

■劉邦は決して模範青年ではなかった

<本文から>
 容貌は、鼻が高く、何となく竜に似た顔をして、あごひげ、頬ひげがふさふさと美しく、左の股に七十二のほくろがあったと、ほくろのあったことまで神秘めかしく伝えられている。ほくろの多くある人は多くは色が白いから、劉邦も色白であったと思ってよかろう。性質は快達で小事に拘泥しなかった。しかし、後に彼の宰相になった粛何が、この頃彼を評して、
 「劉季(季は邦の字、当時彼は末男だったのだろう)は大法螺を吹くばかりで、仕事にはとりとめのない男だ」といっているから、決して模範青年ではない。「酒及び色を好む」と史記にもある。どちらかといえば、豪傑気取りの不艮がかった男だったのであろう。
 こんな性質だから、農事にも勤勉でなく、家事にもまじめでなかった。壮年になって、試験を受けて役人となり、洒上の亭長となった。宿場長だ。駅馬のこともつかさどれば、宿場の行政・警察等のことも処理したのであろうが、史記に県庁中の役人らが心安く狩れて侮らないものはなかったとあるから、ずいぶん軽く見られていたわけだ。役目も大したものではなかったのであろう。
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■劉邦は重宝・財物をとらず、法で民を守った

<本文から> 最も信頼する張良の言うことなので、未練は大いにあったろうが、心を翻し、宮殿内の重宝・財物の倉庫を厳重に封印して一物も取らず、軍を覇上にかえし、秦の諸県の民のおも立った者共を集めて、こう布告した。
 「わが解放軍の諸侯・将軍達の申合せでは、第一に関中に入った者がここの王となることになっている故、必定わしがここの王となるはずである。諸君は久しく法律がらめの、苛刻、煩項なる政治に苦しんで来たことである故、わしは先ずそれから諸君を解放したい。すなわち、法は三尊にとどめよう。一つ、人を殺す者は殺さるべし。二つ、人を傷ける者は罪せらるべし。三つ、人の財を盗む者は罪せらるべし。以上の三章である」
 秦の民らの喜びは言うまでもない。よろこびのあまり、さまざまな酒食を持って来ては、兵士らをねぎらおうとする。元来、百姓出身である劉邦には、どうすれば民がさらに喜ぶか、わかっている。
 「わが軍の糧食は至って豊富である。諸君に心配をかけたくない」
 と、辞退した。
 劉邦の人気は高まる一方であった。
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■韓信の戦術−いつわり負けて敵を遠くおびき出す

<本文から>
 夜明け方、韓信は大将軍の旗をおし立て、太鼓をどろどろと打鳴らしながら、井陛口を出た。敵は打って出て戦いかける。しばらく戦った後、気合をほかっていつわり負けて、旗も鼓も打捨てて退却し、先に布陣させておいた背水の陣地へ逃げこんだ。趙軍は勝ちに乗って追いかけて来る。塁壁内にのこっていた勢も、これを見て、
 「それ!そこだ!手をゆるめるな!」
 と、先を争って飛び出して来て、争って漢軍の打捨てた旗や鼓を拾う。無我夢中だ。
 韓信は反撃に転じた。いつわって敗走したのだから、実は強いのである。しかも、背後は深い川だ。兵の末に至るまで、死にもの狂いにならざるを得ない。勝っていると信じて意気上っている趙軍もあぐねた。
 その間に、山陰に理伏していた二千の軽騎は、理伏場所を飛び出し、すばやく塁壁内に入り、趙の旗をぬきすて、漢の赤旗を立てた。二千という赤旗がずらりと壁上に立ちならび、朝風にひるがえったのだ。おりからの朝日の中に炎の燃え立つような壮観となった。
 趙軍はどうしても勝つことが出来ないので、塁壁にかえろうとして、馬首をかえし、壁上の変化を見て、あっとおどろいた。兵らは、
 「味方の将校らは全部漢軍に討取られてしまったのだ」
 と疑い、どっと乱れ立った。将校らは、
 「しずまれ、しずまれ!逃げる者は斬って捨てるぞ!」
 とさけんで、刀をふるって逃げる者を斬ったが、しずまるどころか、益々混乱し、大潰走に移った。水辺の主力隊と塁内の二千騎とはこれを挟撃して、大いに破り、趙王歓をとりこにし、陳飴を抵水の岸に斬り、全勝を得た。
 この時の韓信の戦術−いつわり負けて敵を遠くおびき出したすきに、わきに伏せておいた別軍が敵塁に入れかわって占領し、敵の旗をぬいて味方の旗を立てるという戦術は、平治の乱の際、平家軍が源義朝の立てこもっている禁裡を攻撃した時の戦術に応用されている。平家方は戦いをしかけては退き、しかけては退きし、義朝がこれにさそい出され、ついに長追いすると、清盛の弟頼盛がわきから入って占領し、きびしく諸門をかためたので、源氏方は引返して来ても入ることが出来ず、ついに敗れている。
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■項羽が自信にあふれる天才で独断専行の故に負けた

<本文から> 一面から言えば、項羽が自信にあふれる天才で、独断専行するので、臣下としては諌言したり献策したりしにくく、従って有能な士が集まらなかったのでもあろう。項羽が人に大はばに領地をあたえて諸侯にすることをしなかったから、人が集まらなかったというのが、当時の有名人らの批評であり、後世もこの批評を踏襲する者が多いが、単に吝嗇で権力の分与や領地を惜しんだのではなく、天才の独断専行が根本であると、ぼくは解釈しているが、いかがなものであろうか。
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■項羽の最大の欠点は、感情家にすぎたこと

<本文から>
 注意深い読者は、ずっと書いて来たところで、すでにわかっておられるであろうが、項羽の最大の欠点は、感情家にすぎたことである。純情で、愛情深くて、礼儀正しくて、人あしらいなどもこまやかであるくせに、何かのことで立腹すると、まるで制御がきかない。最も惨烈無残なことをしてしまった。抵抗されて手こずった都邑は必ず焼きはらい、住民を重殺し、秦の降卒二十万を院殺したのだ。
 第二は、感情家であるために打算を知らなかったことだ。気に入らない人間に、将来のために利をくらわして心を取っておくなどということは絶対に出来なかった。
 第三は、独断先行したために心から協力する人間がなかったことだが、これは彼が貴族の生れである上に、千万人に卓越した天才であったため、エリート意識が強すぎたからであろう。
 司馬遷は、項羽は剛懐だったと言っているが、剛懐というより、最も誇り高く、最も強烈な名誉心の人であったと見るべきであろう。だからこそ、みじめな末路を見られることを厭って、わが都彰城を最後の戦場にするのを避けたのであり、「天の我を亡ぼすなり云々」と言いもしたのであり、それを立証してみせるために、あの壮烈無比な働きをしてみせたのであり、烏江の亭長の心からのすすめをしりぞけて自殺したのである。この解釈の方が一貫している。
 第四は、年の若さである。壊下の戦いの時、項羽は三十一、劉邦は五十六だ。世間智の上で、勝負になるものではない。項羽は人に官や領地を育み、劉邦は気前がよかったというのだが、劉邦は決して天性無欲な人ではない。項羽という大敵のある間は大いに気前よくふるまっているが、項羽がほろんで、皇帝となると、理由をこしらえて次々にこれを取上げ、殺しまでしている。つまり、劉邦の気前のよさは打算−世間智から出ているのだ。海千山千の不良少年上りの五十男に、二十代の純情な青年がかなうものではないのである。
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■文公は単に女好きで、心のやさしいだけの人であったのかも知れない

<本文から> これで、文公は生涯に受けた恩怨全部を報いたことになるが、ずいぶん執念深いものである。こうまで執念深いと、文公が賢人−仁愛の人であったとはいえないような気がする。しかし、これらのことは狐偃ら−介子推の従者のいわゆる四蛇のやったことかも知れない。とすれば、文公の政治上や軍事上の功績、つまり覇者となったことも、重臣らの働きで、文公は単に女好きで、心のやさしいだけの人であったのかも知れない。
 しかし、大名などというものは、民を愛し、士を愛し、礼儀正しくさえあれば、あとは忠義で智謀の士にまかせきって、その働きの邪魔さえしなければ、それで名君なのかも知れない。組織がしっかりして、優秀な重役陣を持っている会社の社長のように。
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