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<本文から>
秀吉がめざましい躍進をとげた期間、家康はもっぱら着々と武田滅亡後の甲信の経営にあたっていた。これは信長の飛躍時代に家康が着実に今川崩壊後の遠江、駿河の経略にあたっていたのとおなじであった。
家康は自分の実力をよく知る将であり、たとえ好敵手がめざましい躍進をしたとしても、現在自分が何をなすべきかを認識できる冷静さを持っている。いたずらに好敵手と覇をきそうことなく、かといって自分の究極の目標を見うしなう者でもない。胸に熱いおもいを秘めつつ。焦るとなく着実に将来のための地固めに汗をながす将であった。秀吉が勝家を北ノ庄城に討ち亡ぼしたときにも、家康は石川数正を大坂に派遣して、初花の茶壷をおくって、勝利を祝賀している。
おたがいに近い将来の決戦を覚悟しつつも、表向きはまだ友好関係を維持していた。秀吉も茶壷の御礼として、使者を浜松につかわし、不動国行の刀をおくってこれにこたえている。それでいながら、双方はおたがいを監視し、好機いたらば一気に急襲をしかける隙をねらっていた。いまだいずれにも帰属していない諸大名は息をひそめるように二人の行動を見守っていた。 |
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