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          南原幹雄-徳川四天王(下)

■家康は自分の実力をよく知る将であり、着実に将来のための地固めに汗をながす将

<本文から>
 秀吉がめざましい躍進をとげた期間、家康はもっぱら着々と武田滅亡後の甲信の経営にあたっていた。これは信長の飛躍時代に家康が着実に今川崩壊後の遠江、駿河の経略にあたっていたのとおなじであった。
 家康は自分の実力をよく知る将であり、たとえ好敵手がめざましい躍進をしたとしても、現在自分が何をなすべきかを認識できる冷静さを持っている。いたずらに好敵手と覇をきそうことなく、かといって自分の究極の目標を見うしなう者でもない。胸に熱いおもいを秘めつつ。焦るとなく着実に将来のための地固めに汗をながす将であった。秀吉が勝家を北ノ庄城に討ち亡ぼしたときにも、家康は石川数正を大坂に派遣して、初花の茶壷をおくって、勝利を祝賀している。
 おたがいに近い将来の決戦を覚悟しつつも、表向きはまだ友好関係を維持していた。秀吉も茶壷の御礼として、使者を浜松につかわし、不動国行の刀をおくってこれにこたえている。それでいながら、双方はおたがいを監視し、好機いたらば一気に急襲をしかける隙をねらっていた。いまだいずれにも帰属していない諸大名は息をひそめるように二人の行動を見守っていた。
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■徳川四天王に数正が入っていない

<本文から>
 (徳川四天王−)
 という呼び方が家中にある。徳川家をささえる四本柱というはどの意味である。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、それに近年戦場での活躍のめざましい井伊直政の四人である。
 誰が呼んだかえらんだかはわからぬが、四天王の呼び名は家中の誰もが知っている。
 忠勝が気になるのは四天王のなかに数正が入っていないことである。そしてまだ新参に毛のはえたていどの直政が入っていることだ。これは家康がきめたわけではなく、自然に家中で呼びならわすようになったことだから、誰も文句の言いようがない。この呼び方のほかにも数正の現在の立場がいいあらわされている。それで忠勝も康政も、直政の今回の参加をとりやめさせたのだ。
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■江戸に目をつけた家康、家臣にも期待ももたせた

<本文から>
 秀吉ほまだまだ家康を警戒しており、表面的にはともかく、内心では徳川家の失政、隙をねらっている。折あらば徳川家を破綻に追いこもうとしていることはあきらかである。そのために関東の北、会津に蒲生氏郷をおき、さらにその北に奥州に覇をとなえていた伊達政宗をおいた。そして西の甲州に秀吉子飼の浅野長政、駿河に中村一氏をおいて、関東の周囲をかためている。さらに関東内部には、北条氏と緑のふかかった土豪が随所に土着しており、いつ何かの折に蜂起せぬともかぎらない。こういう内外の障害をすべてたくみにおさめ、統治し得てこそ、徳川家の関八州は安泰となるのだ。
 そのためには鎌倉もまた危険な地であった。鎌倉は源頼朝によって創始された武家政治の覇府であり、かつての覇府を家康が根拠地にすることは、また秀吉にあらぬ臆測を想起させかねない。家康はそこまで秀吉にたいして気をつかった。それは家康が今も将来も秀吉の最大の脅威であることに変りはないからだ。今はあらゆる手段をとっても、秀吉の警戒心をゆるめることが必要だった。
 それで家康が目をつけたところが、葦原と茫々とした荒地のつづく江戸だったのである。一見したところでは、江戸は関八州の中心地としてほまったく不向きな場所のように見えるが、開墾、開拓、治水のしようによっては、関東の要地として大変貌しそうな可能性があった。北関東の山々や広大な関東平野からながれくる幾筋もの河川が江戸にあつまり、江戸湾にそそいでいる。治水事業、流れの付け替えをおこなうことによって、江戸の水路は完備し、諸周の産物は江戸にあつまってくる。台地をくずし、森林を伐採し、谷を埋めれば城下町をひろく展開することができる。その中心に城をきずく。が、築城は最後に、何段階にもわけておこなう。大坂城に比べられるような巨城をいきなりきずけば、たちまち秀吉の警戒心を呼びおこすからである。当分はあくまでも舟板をつかった大玄関の城で我慢する。そしてしばらくのあいだは、領内統治に専念する。いまはあくまでも軍事ではなく、統治の時代である。これが家康の基本の方針であった。少々の矛盾や難題はおこるだろうが、それには目をつぶる覚悟である。
(徳川の祖は新田源氏。関東は新田源氏の発祥の地−)
 ということを言わず語らず、家臣たちに分からせることも、家康はわすれなかった。
(家康はいつか源氏として征夷大将軍の地位につく。このままでは徳川は終わらない)
 という期待を家臣たちにいだかせ、いつかくる時期に気持をそなえさせたのだ。
 江戸の開拓土木工事がはじまった。武将、兵士たちも刀槍を鰍や斧に持ち変えて、工事の指揮や作業にしたがった。
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■三傑

<本文から>
 中庭に面した小書院の廊下の襖はひらかれており、すでに康政、直政の二人はきていて席についていた。両人とも忠勝とおなじく肩衣、袴姿を著して、折目ただしく座している。
 「お先きに」
 康政、直政が言うのと、
 「遅れ申した」
 忠勝が挨拶するのがほとんど同時であった。
 上座にむかって三人はならんですわることになる。いちばん入口の近くに直政がすわり、そのとなりに康政がいる。忠勝が空いているいちばん奥の座を占めることになった。
 三傑というのは、とくに位や順番がきまっているわけではない。年齢は忠勝と康政が同年で、直政がひとまわり若い。徳川家につかえた譜代の順位でいえば、忠勝、康政、直政の順である。しかし禄高を比較すると、直政がほかの二人をしのいでいる。
 ひとつひとつを比較すればこのようになるが、家中においては(三傑)という呼び方でくくられており、このうちの誰が上位で、何者が下位ということはない。三傑という言葉は(四天王)をひきついだ呼び名なのである。四天王の四神に順位がないのと同様、三傑にもないのである。しかし年の若い直政がほかの二人をたてて、みずから譲ることがおおいのは事実である。
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■三傑全盛の時代は過ぎ去る

<本文から>
 家康の側にはつねに正信がいた。正純もいた。家康の大切な相談はほとんど、正信、正純父子が受けていたのである。家康の将軍隠退の件も本多父子はもっと早くから受けていたであろう。
 かつて忠勝、康政、直政がそうであったように、現在の正信、正純父子はほとんど自分の領地にいることはなく、江戸の将軍膝元ですごしている。以前、三傑がつとめていた側近の役目を今ほ正信、正純がはたしているのだ。戦はないから、軍事上の問題はなかった。
 (時代は移ったのだ)
 忠勝はむなしさを禁じ得なかった。忠勝、康政らは、かつて正信に武功のないことをさんざん言いたててきたが、ともかくも今は戦のない時代である。あえて武功はなくともかまわぬ時代である。
 そして秀忠の将軍就任で、時代はさらに大きく変った。ここで忠勝は自分たちがいっそう時代から取りのこされていくのをおぼえた。
 (三傑の時代はおわった。直政ははやく死んでよかった)
 直政の後は長男直継がついでいる。
 秋の日は釣瓶落とし−、という。三傑全盛の時代はたちまちにして過ぎていったのだ。忠勝はそれを寂しいとか哀しいとか感じなかった。しいていえば、時代のうつろいの早さを感じ、世の無常を実感したというはのが正しい。時代が変れば世の中から必要とされるものも変ってくる。家康をうらむ気持はさらさらなかった。
 忠勝は急速に変っていった江戸城の姿や江戸城下町の全貌を見るにつけても、時代の変遷を痛感せずにはいられなかった。これは忠勝が今城主となっている桑名城を見てもわかることである。桑名城がはじめにきずかれたのも古く、桑名三郎行政という者によって戦国初期につくられ、その後機玖もの城主をへて、関ケ原合戦の翌年から忠勝が城主となった。忠勝は入封するとすぐ揖斐川の流れが伊勢湾にそそぐ河口近くに巨大な城郭建築の工事にとりかかった。いまだ完成途上であるが、やがて扇の形をした河岸城が完成する予定である。櫓数五十一ケ所、多聞四十六ヶ所を擁し、三ケ所に水門をもうけた城であり、これが完成すれば城下町も今までの形とは全然ちがったものとなる予定である。時代とともに世の中は変り、人も変るのだ。言ってみればこれは当然のことである。人も時代も変らぬほうがおかしい。忠勝にもそれは十分わかっていた。
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