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          海音寺潮五郎 寺田屋騒動

■幕府からの大権奪還の失敗が寺田屋事変

<本文から>
 次は徳川氏ですが、これも別段天皇にお願い申し上げ、そのお許しをいただいて政権の座についたのではありません。もちろん、将軍宣下は受けていますから、頼朝以来の先例によって征夷大将軍の職には天下の政権が附随しているのですから、天皇が特に天下の政権をまかせると仰せられる必要はなかったのだと解釈することは出来ます。しかし、頼朝は詐取し、尊氏は奪取したという沿革を考えますと、御委任というより泣寝入りと説明した方が適切ではないでしょうか。
 どうして私がこんなことをくどくど申すかといいますと、寺田屋の壮士等によって計画されたことは、幕末維新史において最初の幕府からの大権奪還の拳であり、その失敗が寺田屋事変ですから、幕府政権というものの成り立ちを究明してみたくなったからです。
 幕府政権の成り立ちは以上申しました通りのものですが、江戸時代約二百七十年の間に、幕府は朝廷から委任されて日本の政治をつかさどることになったのだという常識が出来ました。長い間平和がつづき、学問がさかんになったためです。
 当時の学問は、中国伝来の儒学が主流です。儒学の盛行に刺激されて国学も成立し、さかんになりましたが、各時代を通して主流をなした学問は儒学です。申すまでもなく、儒学は道徳の学問であり、政治の学問ですから、日本人中の頭脳の優秀な人々が熱心にこれを学ぶことになりますと、京都にお出での天皇と、江戸にいなさる将軍とは、どういう関係のものかと考えざるを待なくなって来ます。学問とはそのように理屈っぽいものであることは、皆様すでに御承知です。
 人々は大いに考えました。すると、儒学という学問の性質上、天皇を日本国の最上の権威とせざるを得ません。儒学には史学の面がありますが、儒学の史学は「尊王賤覇、中国至上、外夷蔑視(あるいは撃攘)」の思想が根本になっています。これは朱子学の史学において最も鮮明ですが、朱子学にかぎらず、儒学そのものにあるのです。王覇ということば、尊王攘夷ということばがすでに春秋の時代からあることをもってもそれはわかいソます。
 このような学問ですから、この学問をしている人々としては、どうしても天皇を日本国の最上の権威者とせざるを得なくなるのです。しかし、その人々も幕府を香足するわけには行きません。何といっても、幕府は社会の秩序と平安の元締ですからね。またこれを否定するようなことを言っては、一身一族の滅亡になりますからね。天皇を最高権威としながら、幕府の存在理由も認めることが必要です。そこで、案出されたのが、「将軍は天皇の御委任を受けて、日本の国政をとっているのである。幕府とはそのようなものである」
 という理論です。将軍が天皇から委任なぞ受けていないことは、ずっと書いて来た通りですが、これで皆満足したのですね。 
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■寺田屋の企てた根底には斉彬の後の藩政府に絶望していた

<本文から>
 それから、前章で語りました琉球における斉彬の計画です。あの計画の大方の下準備はほとんど完全に出来ました。汽船や軍艦や小銃製造機械の買入れのことも、当時都覇に居留していた二人のフランス人にむりやりに頼んで、福建省の福州のフランス領事を介して注文しました。旧制の小銃・大砲を中国に売りこむことには、市来四郎が琉球商人を同伴して中国に渡り、中国の商人と相談し、北京まで行って軍部の大官と折衝して、持って来さえすればいくらでも買い入れようという約束をとりつけたのです。
 これらのことについて、琉球政府の人で最も働いてくれて、政府の要人を説得したり、フランス人との交渉にもつとめてくれたのが、四人いました。玉川王子、三司官、一人小禄良忠、奉行の一人恩河朝恒、外国通事で薩摩からの要求で新しく表十五人衆にされた牧志朝忠です。この人々は進歩主義の人々でしたから、斉彬を信頼し、これに協力することによって、琉球の独立と栄えとが得られると信じて、熱心に協力したので、羽ぶりもよかったのです。
 ところが、斉彬のにわかな死によって、事情は一変しました。羽ぶりがよかっただけに、四人には政敵が多かったのです。薩摩の本国政府の方針の一変とともに、政敵等は四人に襲いかかったのです。根も葉もない疑獄を次ぎ次ぎにデッチ上げて、惨烈な拷問にかけ、そのためにそれぞれに悲惨な死をとげたのです。
 この事件も、薩摩側から二言申しこめば、四人は不問にされ、釈放されたに違いないのですが、それをしなかったのは、薩摩の新政府は旧政府と主義主張が違っていただけでなく、憎悪感情を持っていたからであると考えるのが、最も納得しやすいではありませんか。四人の人々の政敵等は、そこをちゃんと洞察して、決して横槍が釆ないことを知っていたのでしょう。
 私がこんなにこのことをくどく申しますのは、寺田屋の壮士逮があんなことを企てた根底には、斉彬の後の藩政府に彼等が絶望していたという事実があるからです。
 当時、薩藩に、誠旭施という青年武士の集団がありました。ずっと前、島津重蒙が隠居してから、次代の斉宣の施政ぶりが気に入らず、斉宣取立ての家老秩父太郎等を切腹させ、斉宣には隠居させ、その子斉興に家をつがせたことを書きましたが、この秩父太郎という人物はまことに見事な心術の武士でした。
 この秩父太郎の人となりを思慕する西郷・大久保・伊地知籠右衛門(正治)・青井幸輔(友実)・有村俊斎(海江田信義)などという人々が、秩父の愛読書であった『近思録』(朱子ヒその友呂東兼の共著、朱子学でほ精髄とするほどの書です)を共同研究したのが、誠忠組のそもそものおこりです。そのはじめが秩父太郎の人となりを慕ってはじめたものですから、この人々の目的はよくわかります。秩父太郎のような見事な人がらの人物になりたいというのですから、立派な薩摩藩士となりたいというのであったことは明らかです。
 やがて彼等の中の西郷が斉彬に抜擢され、薫陶を受けて日本の危機を知り、またその指示を受けて国事に立働くことになりますと、メンバー全部も西郷の話や手紙によって国事に関心を持つようになりました。つまり、西郷は斉彬学校の直接生徒、他のメンバーは通信受業生というところです。
 こうして、単に藩にまことの忠誠を尽す見事な藩士と怒りたいとだけ思っていた彼等は、憂国慨世の政治青年となったのです。彼等のこの態度に刺激されて新しく加入する者が引きつづいて、藩中の一勢力にまでなったようです。
 時勢もまた大いに彼等を刺激しました。ペリーが二度目に来航して、昨年おいて行った「開国要求」の回答を聞きに釆、もぎとるようにして修好条約を取りつけたのは、西郷が斉彬に抜擢されて、斉彬の供をして、はじめて江戸に出て来た時です。どこの藩でも、ペリー来航が動機になって青年等が国事に関心を持つようになったのですから、薩摩の青年等がそうなったのは言うまでもありません。
 誠忠組の人々は斉彬を心から崇拝して、斉彬の指揮の下に救国の事業に立働くことを熱望し、その引兵上京に供することに張切っていたのですから、斉彬の突然の死に悲嘆たえがたいものがありました。西郷が国へ帰って斉彬の墓前で殉死する決意をしたのを、月雁に知られて訓戒されて思い止まったことは有名ですが、『維新前後実歴史伝』によりますと、有村俊斎も殉死するつもりになったというのです。有村の外にもいたに違いありません。
 ここに密勅事件という、幕末史で最も有名な事件があります。もと水戸藩士であった日下部伊三次は、元来父が薩藩士であった縁故から斉彬に召しかかえられていました。以前水戸藩士であっただけに、井伊が水戸老公等に厳重な処分をし、その政治活動を厳重に封鎖したのを憤激して、水戸の有志等にこう持ちかけました。
「拙者は京の三条前内府公をよく存じ上げている。いかがでござろう、京に行って三条公によって朝廷に運動し、井伊を罷免し、老公や尾州慶怨公、越前慶永候等の処分を解除せよとの勅許を下していただくことは。拙者は必ず成功すると信じているが」
 水戸の有志等にしてみれば、憤慨悲憤は日下部におとるものではありません。「ぜひ頼む」となって、日下部は上京して来ました。それは斉彬の訃報がまだ届かず、西郷が必要な運動を着々と進めている頃でした。日下部は西郷から話を聞くと、「もはや天下のことは成ったと同じです。拙者の運動はやめて、貴殿のお手伝をしながら太守様の御上洛を待ちましょう」
 そうしていたのですが、やがて斉彬の訃報が、とどきました。
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■誠忠組の分派の連中が寺田屋事変の主体

<本文から>
 藩主の鄭重にして懇切な論告書に感激して、誠忠組の壮士等が脱出計画を中止してから二月足らずで、新しい年になります。安政七年(一八犬○)です。三月十八日に改元されて万延元年、即ちその三月三日に桜田門外の事変があった、あの年です。天下の大老が路上に身首ところを異にするような大変事がおこったのは不祥というので、改元されたのです。
 前に述べましたように、元来、この計画は誠忠組の壮士等が水戸藩有志の者に呼びかけて成立したもので、そのために誠忠組の壮士等の脱出計画も立てられたのです。ですから、壮士等が脱出計画を中止したのは、単に論告書に感激したためばかりではありません。感激とともに、殿様御父子は我々の至情をよく御承知であればこそ、こんな論告書を賜わったのだから、井伊が殺されるという事変が中央でおこれば、殿様は必ず藩兵をひきいて御出馬になると思ったからでもあります。つまり、彼等は論告書を殿様御父子の自分等にたいする契約書と受取ったと言えましょう。
 国許にいる連中も、ほとんど全部がそう受取ったのですから、江戸に出ている連中はなおさらです。藩は自分等が水戸衆と共同謀議して計画したことを承認した、従って自分等が断行して井伊暗殺に成功しさえすれば、藩は全力をあげて乗り出すことになったと思いこんだのです。ところが、久光父子の気持はそうではありません。遠い将来、時節が到来したら、全藩の力をあげてやる決心だから、それまでわし等父子を信じて待てといったつもりだったのです。
 誠忠組は間もなくはげしく動揺し、ついに一種の分派活動がおこり、その分派した激派の連中が寺田屋事変の主体となるのですが、その分派の最も根本的な原因は、この時の食いちがいであったといってよいでしょう。
 さすがに、大久保は周到な男ですから、江戸に出ている連中をうまく説得しなければ、そちらから破れて来ると思いまして、もちろん手紙でくわしく説明してやりましたが、なお久光に、自分が江戸に行ってなかまを説得しますから、出府を許していただきたいと願い出ましたが、どうしたものか、久光は許しません。思うに、『古史伝』のページの間にはさみこんで呈した書付によって、よほどに過激な思想と行動力のある者と見て、
 かえって江戸のなかまをあおり立てる危険があるとでも判断したのでしょうか、家老、重役、児玉、谷村等の、あらゆる線をたぐって願い出もしたのですが、ついに許さなかったのです。
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■大久保と西郷に共通するところは勇気と無私

<本文から>
 我々は幾度もだまされどる、信用出来んのだという者もあります。それにたいしては、久光の志と重役等の心との食い違いを説明して、あながち、久光様が我々をだましなされたと考えるべきではない、やがてこの形勢は必ず変って、久光様の志が素直に実行に移される時が来る、遠いことではない、間もなくのように拙者には思われる、それまで待とうではごわはんかと説きました。
 「関殿をどうなさるのだ。開殿は幕府に追われていなさるのだ。今応じなければ、見殺しにすることになりますぞ。武士として、そげん不徳義盲して、よかとお思いか!」
 と、最も鋭く突っこんで来るものもあります。
 「やむを得んことでごわす。見殺しにするのでごわす。関殿だけではごわはん。なお色々な人が来るじゃろうが、いたし方はごわはん。いずれも見殺しにするのでごわす。男子たるものが大事をなすにあたっては、小さな義理は捨てんければならん場合のあることは、おはん方も知っておじゃろう。今がその時でごわすぞ」
と、大久保はたじろがず答えたと、後年、高崎五六が追憶談しています。
 あっぱれと言ってよいでしょう。幕末維新の時代は、日本歴史の中で、戦国の中期以後の時代とならんで、英雄時代と言ってよい時期で、さまぎまな型の英雄が雲のごとく出ましたが、大久保と西郷とは最も異色の型の英雄です。この時代にめずらしかっただけでなく、いかなる時代にも居なかった型のように私には見えます。二人に共通するところは、勇気と無私とです。勇気は英雄といわれるほどの人には必ずある特性ですが、無私は英雄には最もめずらしいものです。英雄とは強烈な自我の人であり、功業の人でありますから、無私ではあり得ないのです。しかし、この二人は最もめずらしくそうであって、あらゆる時代の英雄等ときわ立った相違を見せているのです。思うに、これは武士という日本特有の階層人が、儒教という学問によって三百年近くも陶冶されて結んだ、最も見事な成果なのでありましょう。
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■久光の計画を反対した西郷に中山は悪意をもった

<本文から>
 三人は最も意外でした。彼等はこんどのことについて、西郷ほど喜ぶ者はないであろうと信じきっていたのです。西郷にとっては、先君の指図でこの計画の実行に働いていたさなか中断したものを、こんど継いで再挙しようというのですから、勇躍して、最も頼もしく、最も力ある同志として働いてくれるに違いないと思いこんでいたのです。そのつもりで召還もしたのです。ですから、狼狽しながらもいぶかりました。大久保に至っては、ここに来るまでの間に、わしはどうして余計な物語ばかりして、かんじんなことを話さなかったのであろう、しまった、しまった、と後悔したことでしょう。
 西郷は最も無遠慮に断定を下しました。
「そげんとりとめもなかことで、ようもかほどの大事を思い立たれたものでごわすなあ、拙者は驚いていもすぞ」
 ぎぶッと、冷水を折っかけるようだったでしょう。三人は狼狽しながらも、中山が申します。
「じゃから、おはんの帰りを待っていた。おはんにいろいろと働いてもらおうと思って、首を長くして待っていたのでごわす。今おはんの言われたようなことは、すべておはんにおまかせしもすから、大いにやっていただきたいのでごわす」
 きげんをとるような言い方です。我の強い性格である上に、今久光の寵愛が最も厚く、家中第一の権勢の人となっている中山がこんな調子で言うのは、よくよくのことです。
 しかし、西郷は首をふり、こべもなく答えかす。
「それはおことわりしもす。これがまだ御内評中というなら、いたしようもごわすが、こうしくさらしてから、まかせると申されても、出来ることではごわはん」
 座中索然としてしらけ、中山の顔色はさっとかわりました。
 私はここを、先に一部分を披露しました西郷の木場伝内あての手紙によって書いています。『大久保日記』も、『大久保文書』も、このへん二月半ほどの分がごっそり抜けていますので、西郷のこの手紙以外には根本史料がないのです。
 西郷は自分のとった態度を正当と信じ切った書き方をしていますが、公平に見て妥協がなさすぎるという感もありますね。それはきっと、先に推理したように下総に頼まれ、西郷もそれに同意したために違いありません。そして、それは斉彬の末期の遺言はなかったということにも連なりましょう。
 ともあれ、西郷はこの時のこの態度が根本的原因となって、やがて再び南海に流されるのですが、それには中山尚之介の西郷にたいする感情が大いに作用しています。
 前に書きましたが、西郷が大島から帰還する運びになったのは、大久保が中山に頼み、中山が久光に嘆願したためです。つまり、中山のお蔭なのです。ですから、市来四郎は、明治になってから史談会の席上で、
「西郷は中山によく礼を言うべきであったのに、それをせず、かえって冷淡にあしらった。西郷が再び南島に追放されたのはそのためである」
 という意味のことを申しております。これが一つです。
 二つには、中山は君寵を受けて、大変な羽ぶりでいます。明治中期の頃に、当時の生きのこりの古老が、この当時の首席家老は喜入摂津であり、側役は小松帯刀と中山尚之介であったが、藩政の真の実権者は書入でもなく、小松でもなく、中山であった。当時の藩政府は中山内閣ともいうべきものであった、と言っています。これほどの中山にたいして、西郷は全然尊敬の態度を見せなかったのです。
 西郷という人は、人の好ききらいのはげしい人です。心術が清潔で、さわやかな人柄の人や、朴直で勇敢な人間は、手腕がともなえばもちろん大好き、手腕がなくてもある程度は好きですが、私利私欲の徒や、倣傾な威張屋や、小才にたけて多弁な人間は大きらいなのです。中山は倣慢で威張屋で、小才にたけて多弁な人間と、西郷には思われたのでしょう。人間の好悪の感情は、光と影、音と反響のようなものがあります。好意を持てば好意を、悪意を抱けば悪意を、反射するのです。
 三つには、久光の心に、ある劣性コンプレックスがあったことです。久光は斉興の死ぬまでは巨細布にありました。斉興が死んだのが、安政六年(一八五九)九月、忠義が発議して(実際は久光が所望してそうさせたのでしょう)、久光を本家に復籍させ、「上道り」として、藩主同然と心得、「国父」と唱え申すべしと藩中に布告したのが、文久元年四月です(『久光公実記』)。その時から今まで、まだ十カ月しか経っていません。久光にしてみれば、家中の暑が自分を主と仰いでくれないのではないかとのコンプレックスがあったはずです。               
 ところが、西郷の当時の藩内の声望は最も高いものがありました。士分としては最も低い家格である庖従組、役目といえば前徳目付、鳥頚、魔方という卑聴にすぎないのに、誠忠組はもちろんのこと、前家老の島津下総一派も、一般家中も、西郷の帰還を熱望したのです。少々誇張して申しますなら、救世主の来るのを待ち望むに似ていました。このような西郷にたいして、久光はそうでなくても、久光の最も忠誠な直臣をもって自任している中山としては、平心でおられるわけはありますまい。今日までのところ最もすぐれた大久保利通の伝記を書いている勝田孫弥が、その伝記中に、「西郷はそのあまりにも高い声望を、久光派の人々に嫉妬され……」という意味のことを書いていますが、それはこの意味においてでありましょう。久光にたいして最も純粋にして篇実な忠誠心を持っている中山にとって、西郷が望ましからぬ人物に思われたのは、不思議ではないでしょうね。
 小松と大久保とがいろいろ鋭得につとめましたが、西郷は受けつけません。
 「おほん方とこの上議論しても、儂はあきもほん。どう考えても、わしには疎漏千万な計画しか思われもさんから、久光公に直々お目通りして、うかがいとうごわす。その手続きをして下され」
 「それはもう予定してごわす。両三日中にはお召出しになることになっていもす」と、三人は答えました。
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■久光の長州嫌いの理由

<本文から>
 長州藩が、久光の中央乗出しのことを聞いて、藩をあげて興奮したことは、ずっと前に書きました。あれは長州本国でのことでしたが、京坂地方でもそうでした。それは旧松下村塾の人々やその人々に近い人々だけではなく、重役の一部から家老の一部までそうでした。大坂屋敷の留守居役宍戸九郎兵衛が自分の方サら求めて西郷に会ったことは前に語りましたが、その後宍戸は京都に上って来ました。家老の一人浦勒負も国許から京都へ上って釆ました。いずれも音数十人の壮士をひきいていました。薩摩が事をおこしたら、即座に立って事を共にするためです。
 長州人らをこうまで興奮させたのは、大義名分や、時勢にたいする憤激や、吉田松陰 の教育効果のためだけではありますまい。ずっと前に書いたと思いますが、関ケ原役によって、不当に禄高を三分の一に減らされセナしとにたいする綿々たる怨恨がこの時一斉に爆発したのが最も根本的なものであると思われます。ともあれ、この時爆発した反幕的なものが、最後までずっとつづくのです。
 この長州人らと薩摩の激派との連絡にあたっていたのは西郷でしたが、西郷が国許へ追いやられて以後は、長州側では久坂、薩摩側では有馬がそれぞれ連絡招批洩ったようです。しかも、長州藩は有馬等の運動資金まで支給したようです。薩摩士は一般に貧乏ですし、公私の別が厳重な藩風なので、こんなことで藩から金を引き出すことは不可能だったのです。その点、長州藩は気前が良いというか、ルーズというか、若い者らに実によく金を出してくれました。高杉や井上などのグループは、遊蕩費まで薄から引出していますからね。
 この後、久光は長州藩を、ずいぶん長い間、徹底的に憎み嫌いまして、後年薩・長連合の成立もゴタゴタして、当時では斡旋者である坂本龍馬や中岡慎太郎をやきもきさせ、後世では歴史学者に首をひねらせていますが、その最初の理由は、長州藩がこのように薩摩の壮士らに経済的の援助までして、久光の意図から反れさせたことにあり、その後次から次に久光を怒らせるようなことが重なったからです。
 さて、有馬新七ら薩藩激派の人々と浪人志士らとは、久光の真意を知らないではありませんでしたが、その知りようは相当あまいものでした。
 つまり、それは久光という人間の性格を十分に知っていなかったところから来るのです。今は公武合体などというなまぬるい考えでいなさるが、我々がクーデタ一によって九条関白をしりぞけ、酒井所司代をたおし、同時に相国寺に幽閉蟄居されている青蓮院官を救い出し申し、参内していただき、天皇を御輔佐する役についてもらうなら、久光様のお考えは容易にかわって、討幕の総帥となりなさるであろうと踏んでいたのです。彼らの観察では、機会はすでに十分に熟しているとしか思われなかったのです。
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■寺田屋での「君命」と「宮の仰せ」

<本文から>
 伊助は手代に命じました。手代は階段を上っていきました。恐らく手代は二階の薩摩人等がものものしく武装しつつあるのを見て、おどろきおびえたことでしょうが、気をとり直して、有馬様はどこにお出ででございますか、お客様がお出でになりましたと、呼ばわりました。
 橋口伝蔵はすでに身支度をおわって、酒をのみ、少し酔っていましたが、強い、きびしい声でどなりました。
 「有馬なんどという者はおらんぞ。誰じゃ、会いたいというのは!」
 この時、江夏仲左衛門と森岡善助とはすでに階段の上ケロまで来ていましたので、橋口の声ははっきりと両人の耳に入りました。両人はつかうかと階段を上りました。両人もまた覚悟して来ていたでしょうが、人々の武装姿を見でおどろいたことでしょう。やがて、人々の中に柴山愛次郎の顔を見つけまして、
 「愛次郎サア」
 と呼びかけて、
 「わしらは、おはんと有馬新七サアと、田中謙助サア、橋口壮助サアの四君に用談があってまかり越しもした。別室でお会い下されよ」
 と、申し入れました。
 指摘された人々には、相手等がどんな用件で来たか、すぐ見当がついたことでしょうが、かねて親しい交りのある人々です。とりわけ、誠忠組の同志でもあります。
「御用談とあれば、お会いせんわけにはいかんな」
 といって、有馬をはじめ四人は、ごく沈着な態度で階段を下りて、奈良原等と共に階下の一室に入って対座しました。
 奈良原は申しました。
「拙者等が参ったのは、和泉様の御命令を奉じてのことでごわす。和泉様は、おはん方に今すぐに錦のお屋敷に参って、御前に出られよとのことでごわす。和泉様は、朝廷の御首尾まことによろしく、畏きあたりにおかせられては、御忠誠を深く御感になり、京都に滞在して京の鎮めとなるようにとの勅読まで賜わりなされた次第でごわす。おはん方の働き場所はいくらでもあるのでごわす。早速にかしこまりあって、京のお屋敷へまいられるように。拙者共が御案内つかまつる」
一同を代表して、有馬は答えました。
「せっかくの和泉様のお召しでごわすのに、恐れ入りもすが、拙者共は今、青蓮院官のお召しをこうむり、これから参るところでごわす。先ず官の御用を済ませましてから、まかり出でるでごわしょう」
「君命でごわすぞ。君命にたいして、そのような態度に出なされてよいとお思いか」
「君命より官の仰せの方が重うごわす」
 きっぱりと有馬は言い切りました。「官の仰せ」というのは、この場合、天皇の御命令という意味を含んでいるのです。

明治34(1901)年、鹿児島県に生れる。国学院大学を卒業後、新宿や京都で中学校教師を務めるかたわら創作にはげむ。「サンデー毎日」大衆文芸賞受賞を機に、執筆生活に入る。昭和11年、『天正女合戦』で第3回直木賞を受賞し、文名を不動のものとした。和漢の書にあまねく通じ、綿密な時代考証の上に、独自の史観を展開し、小説に随筆に新たな領域を拓き、多くの著作を残した。昭和52年12月没。
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