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<本文から> 日野の鉄砲製造は、領主蒲生氏郷の政策としてはじめられた。氏郷は織田信長配下の傑出した戦国武将であり、戦略と商業の両面からの政策で、日野の鉄砲産業の育成につとめた。それは城下に鉄砲町、鍛冶町が、弓矢町、大工町などとともに日野城のちかくに町割りされていることでもわかる。はじめは刀鍛冶集団の町だったのを鉄砲町にあらためたのだという。
ところが信長の覇業をうけついだ秀吉は氏郷を伊勢松ケ島十二万石に加封、移転させた。このとき鉄砲鍛冶の一部は氏郷について松ケ島へ移住した。これがために日野鉄砲鍛冶の発展はおくれた。日野城下がもっとも繁栄したのは氏郷時代であり、氏郷が去って日野城下の勢は衰えた。現在、日野鉄砲鍛冶が技術と生産の両面にわたって、国友、堺におおきく水をあけられているのも、氏郷の移封が最大の原因であろう。商業政策の面でも日野は衰えを見せた。そのために日野の商人たちは領内に見切りをつけて、天秤棒に荷をさげてどんどん領外へでて紳巧瀬雅的な商売をするようになった。これが日野商人のはじまりである。氏郷はその後会津若松四十二万石へ移封されたので、日野商人は遠く奥州へまで行商するようになり、やがて全国へ足をのばし、出店をもうけるまでになった。
外へでていって成功した日野商人にたいして、内にこもった日野鉄砲鍛冶は逆の運命をたどっていったのだ。鉄砲鍛冶は地付きの工場でこつこつと手づくりの生産をするものであり、外への出口を見つけることができなかった。くわえてあたらしい技術をきそう製造業であるから、各地の鉄砲鍛冶はいずれも秘密主義をとる。たとえ一部の技術は開放したにしても、肝心のところの技術はけっして公開はしない。その技術によってすこしでも他に優れた鉄砲を生産することに鍛冶たちの存在価値はある。日野鉄砲鍛冶はその技術開発において、国友、堺の鉄砲鍛冶におくれをとったのである。 |
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