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          海音寺潮五郎−天と地と(下)

■戦争にたいして芸術のような興奮と陶酔があった

<本文から>
 しかし、敵の退陣をあっけらかんと見ている手はない。敵より早く陣ばらいして、敵の意表に出てどぎもをぬくのも、武将の技傭というものだ。
 ゆとりのある、のんきな時代であったといえばそれまでのことであるが、戦争にロマンチシズムもあれば、ヒューマニズムもあり、芸術もあった時代だ。この時代の武将らは多かれ少なかれ、戦争を一種の芸術と見て、手際を競う点があったが、景虎はわけてそうであった。彼ほど戦争が好きで、彼ほど戦争にたいして芸術家が芸術制作におけるような興奮と陶酔のあった人はない。彼が生涯女を近づけなかったというのも、芸術家の芸術にたいする、あるいは宗教家の宗教にたいする捨身と犠牲の感情である。
 馬をかえすと、直ちに全軍に便番を馳せて、引上げにかかった。物音一つ立てず、迅速をきわめ、夜の明ける頃には、その本軍は善光寺平を出て、北国街道を北へ北へと帰りつつあった。
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■小田原攻めに北条氏康は持久戦で対抗

<本文から>
 小田原北条氏がこの形勢を一大事と考えたことは言うまでもない。この当時の北条氏の当主は早雲の孫で、名将といわれた氏康だ。深沈にして大度ありといわれている人だ。
 かねてから景虎の人物や戦法を研究していて、一応の対策は持っていたようである。思うに、その対策は、北条五代記や関八州舌戦録を参考にしての事後からの判断であるが、
 「景虎という男は潔癖で、正義好みで、自らの武勇に絶対の自信をもち、烈火のような戦いぶりをする男だ。欠点はあまりに名誉心が強いのと気短なことだ。持久はその得意とするところではない。こんな男と正面から全力をもって接戦するのは策の得たものではない。鋭鋒をかわしかわし接戦をさけているうちには、こらえきれずに退去するであろう。しからずとするも、病癖をおこして、粗漏な戦いをするようになるに相違ない。それを待って撃てば、必ず利がある」
 と、いうのではなかったかと思われる。
 ともあれ、氏康は櫛の歯をひくがごとき注進にも動ずる色がなかったが、関東諸国の大小名らの動揺があまりにひどいので、そうしておられなくなった。期するところあって悠々とかまえている氏康の態度は、豪族らには理解出来ない。臆して居すくんでいると見たのであろう。附属していた豪族らで景虎方に降伏する者がいくらでも出て来る。
譜代の家臣らは気をもんだ。
 「このままの勢いで進めば、早雲公以来三代のご経営は無になってしまいます。一時も早くご出馬あって、有無の一戦を願わしゅうござる」
 と、口説き立ててやまない。
 「さわぐことはない。おれには目算があるのだ」
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■わずかの手勢での唐沢城救出劇

<本文から>
「大軍もしかさにかかっておし包んでまいらば、お屋形のご武勇をもってしても、あぶのうござる。あと両三日もしたら、諸勢も集るでござろうから、それまでお待ちいただきとうござる」
 景虎は首をふり、
 「その両三日を持ちこたえることの出来る城とその方どもの目には見えるかや。おれが心は決している。たとえ途中に討取られようと、一片の義を踏んで死んだといわれるはおれが面目となることだ。とめるな」
 と、言いはなち、早速、実行にうつした。
 ひきいて来ている三千の兵を、こちらに備えている敵勢に向けて備えさせ、翌日早朝、城に向った。
 景虎はわざと甲胃は着けず、黒い木綿の道服を着、自綬で頭と顔せつつみ、する墨のごとき黒馬の野髪長くのびたのに金覆輪の鞍をおき、十文字槍を小脇にかいこんで乗り、旗奉行横井内蔵助に「無」の字の旗を持たせて自らの脇に密接して立たせ、旗本の壮士から身体強壮、心剛な者十六人をすぐり、一様に鹿の角の前立打ったかぶとを着せ、二列に立て、右列には五尺柄の手鉾をかつがせ、左列には長巻をかつがせ、これを徒歩で真先に立て、次には騎馬武者十二人、胃は着せず白布で鉢巻させ、金のバレンにそれぞれの名を書かせた差物をささせ、これも二列に立て、自分のまわりには馬まわりの者を十六人、いずれも徒歩立ちで、白布をもって鉢巻させて従えた。総勢わずかに四十六人だ。
 きびしい霜の朝だ。本陣を乗出し、粛々として敵陣の中に入り、真一文字に城を目指した。
 古戦録は、
 「主従わづかに四十六人、徐々と本陣を打ち出で、十重二十重に備へたる敵軍の真中を、怯めず臆せず一文字に押し切り通らるるその勢ひ、活溌魏然として肌へ撓まず、目まじろがず、あたかも毘沙門天・韋駄天などの荒ぶり給ふ景色」
 と叙述している。
 この猛威に三万五千の北条勢は気をのまれ、一人として手出しする者がなかったという。
 城中からはるかにこれを見ていた佐野昌綱は、景虎が城門近くまで来ると、ひたかぶと四、五十騎をひきつれて門をおしひらいて駆け出し、景虎の馬の口にすがりつき、泣いて感激して、城内に迎え入れた。
 城内の者は、どっと歓声をあげ、勇気百倍した。
 これで気をさましたのであろう、北条勢は退却にかかった。越後勢も佐野勢もそれを追撃して、敵が古河まで退く間に、千三百七十余級の首を上げたとある。
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■景虎はこの時代では最も古い型の人間ではあった

<本文から>
 しかし、近衛前嗣を関東公方として仰ごうというのは、景虎という人物を考察する上に、よいよすがになる。前嗣は関東には縁もゆかりもない人物だが、現関白であり、天皇についで日本で最も尊貴な人だから、関東人らも皆悦んで仰ぎ服するはずと、景虎は判断したのであろう。景虎の権威主義が単に便宜のためのものではなく、骨髄からのものであったというよい証拠になる。
 当時の日本は大変革期にあったのだから、こういう点、古い権威にたいしては利用価値しか認めなかった信長よりも、また、ひょっとすると彼より九つも年長であった信玄よりも、古かったかも知れない。信玄は古い権威を尊重することは決して彼におとらなかったが、これを利用するにあたっては実にドライであったからだ。余談だが、古いというも新しいというも、時代による。この次の時代になると、徳川家康のような古い権威の尊重者が最も新しいことになってくる。時代にマッチした者が最も新しく、そして繁栄もするのである。
 以上のように、ある意味では景虎はこの時代としては最も古い型の人間ではあったが、それだけに正直者であったとはいえよう。彼は最も純粋な気持で、昔ながらの権威を権威あらしめることによって、世の秩序を回復したいと意図していたのである。それは歴史の流れに逆行する努力であったが、歴史の流れなどという哲学は当時の人の知り得るところではなかった。
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■車がかりの陣法

<本文から>
 この時政虎の用いた陣法は車がかりの陣法というのであったと、甲陽軍鑑が言い出してから、後世長く踏襲されて、江戸時代に出来たこの時の合戦記はすべてそう述べているが、それがどんな陣法であったかははっきりしない。軍鑑には、各隊が車輪の幅が転ずるようにかわるがわるあらわれ、いくまわり目かには自らの旗本と敵の旗本とがめぐり合って勝負を決する陣法であると記述しているが、実際にはどんな形の陣法にするのか、至ってあいまいである。
 日本の兵学は江戸時代になって小幡景憲が甲州流をはじめてから盛んになって、ほとんど全部の流派がその後の所産で、つまりは太平の時代に机上で組立てられたものであるところから、今日の学者のほとんど全部の人が、車がかりの陣法なども軍学者らの空論であると論評している。ぼくはこの時の政虎の陣形が、その左右隊が両隊ずつならんで二、三列をなしているところから見て、両隊たがいに正奇をなして扶け合うのをこの名をもって呼んだのではないかと見ている。
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