その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          海音寺潮五郎−天と地と(中)

■信仰に篤く、女を近づけなかった

<本文から>
 要するに、最も俊秀な武将らしい相貌となって来たわけだが、彼には普通の武将とひどくかわったところがいくつかあった。
 先ず、毘沙門天にたいする熱心な信仰だ。
「おれは毘沙門天の申し子だ」
 といって、城内にその堂を営んで尊像を安置して礼拝をおこたらなかった。神仏にたいする信仰の篤さは当時の人にはめずらしくないことであったが、彼の熱心さはかなりに異常であった。毎日朝夕二回の礼拝を欠かさないだけでなく、礼拝後その前で長時間結蜘扶坐して禅定に入るのだ。
 次はまるで女を近づけなかったことだ。十七、八といえば、当時はもう成人だ。特別の理由のないかぎりは結婚し、でなければ側室をおくのが普通であるのに、彼は全然女を近づけなかった。興味がないようであった。本庄慶秀をはじめとして家臣らは案じて、そのことを言ったが、
 「おれにはいらん」
 と言った。さして強い言い方ではなく、至ってものしずかな調子であったが、二の句をつがせないきびしさがあって、皆すごすごとひきさがった。
 食べものも、魚鳥の類は全然食べないではなかったが、好きではないようであった。
 酒は非常に好きなようで、興に乗ずると、大杯で二升.も三升も飲むことがあったが、それもほとんどものを食わず、少量の味噌をなめながら飲んだ。そして、決して酔わなかつた。自若としていくらでも飲みつづけた。
 要するに、清らかで、きびしくて、引きしまって、律僧のような日常であった。
 決して負けず、戦えば必ず勝ったので、景虎の名声は大いに上った。
▲UP

■心の潔癖さを求める

<本文から>
 そのどの戦闘にも、自信が胸にあふれていた。負けるかも知れないという不安など一度も経験したことがない。いつの戦闘にも快い興奮が酒の酔いのようにからだを熱くしていたのだが、それがここまで来てさらになくなったのだ。
 これは彼の良心のうずきであった。後年にいたるまで、彼には神経質なほどの心の潔癖さがあり、自らの正当さを信じないかぎり決して戦わず、戦うには必ず正しい自分であるとの信念があり、すさまじい闘志を湧立たせて、戦って勝たざるなく、攻められて退けざるなく、それが武将としての彼の特質となっており、当時にも、また後世からも「義将」といわれている理由であるが、まだ十八という年の若さでは、自分のその心の底がわからず、かつて経験したことのない闘志の萎縮に、疑惑し、狼狽し、あせっているのであった。
▲UP

■薬師堂籠りは口実で、敵陣を視察して戦術を練る

<本文から>
 薬師堂にお籠りに行くとは口実にすぎなかった。彼は三条の地勢を見に行くつもりであった。少年時代を栃尾で過ごした彼は、二、三度三条へ行ったことがあるが、記憶は至っておぼろだ。信濃川の川中島にあり、城は水辺にさしかかって築かれていたというくらいの記憶しかない。四方水でかこまれている城だ。普通の攻め方ではいけないことはわかっている。もちろん、密偵をはなって、出来るだけの調査はしてあるが、それにしても自分の目で調べてみないことには、いろいろ思い浮ぶ戦術に自信が出なかった。戦術は敵の心理推察の上に立っての方策であるから、一種のばくちであるが、巧妙な賭博師が常に大胆不敵な自信家であるように、戦術にも常に絶対の自信が必要だ。自信のない戦術はドタン場までおし切れないのである。おし切れない戦術が成功したことはかつてないのである。
 彼は春日山を出る時から、途中で軍をとどめて、自ら三条の地勢を踏査に行く決心をつけていた。変装の用具もたずさえて来た。
▲UP

■愛欲を捨てて武勇を取る

<本文から>
 戦場における武勇と、愛欲と、どちらが大事であるか、景虎には考えるまでもないことであった。彼が簡単にそう結論することが出来たのは、まだ若くて、愛欲のおそろしさも、したがってその魅力もよくわかっていなかったからであろうと思われるが、とにかくも、愛欲を捨てて、武勇を取ることにきめたのだ。
 武勇の道である。功名の道ではない。従って権勢の道でもない。武勇の道はもちろんこの二つの道に通ずるが、それは彼にはそれほど魅力はない。戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取る武力を一身にそなえて、天下なにものにもおそれずはばからず、男性的気概を立てとおしたいのであった。
 これもまた彼が若いからであったろう。一人前の男性にとっては、権勢の方が愛欲よりずっとずっと魅力のあるものなのだが、それがまだわからないのだから、そうとより思いようがない。
▲UP

メニューへ


トップページへ