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<本文から> 要するに、最も俊秀な武将らしい相貌となって来たわけだが、彼には普通の武将とひどくかわったところがいくつかあった。
先ず、毘沙門天にたいする熱心な信仰だ。
「おれは毘沙門天の申し子だ」
といって、城内にその堂を営んで尊像を安置して礼拝をおこたらなかった。神仏にたいする信仰の篤さは当時の人にはめずらしくないことであったが、彼の熱心さはかなりに異常であった。毎日朝夕二回の礼拝を欠かさないだけでなく、礼拝後その前で長時間結蜘扶坐して禅定に入るのだ。
次はまるで女を近づけなかったことだ。十七、八といえば、当時はもう成人だ。特別の理由のないかぎりは結婚し、でなければ側室をおくのが普通であるのに、彼は全然女を近づけなかった。興味がないようであった。本庄慶秀をはじめとして家臣らは案じて、そのことを言ったが、
「おれにはいらん」
と言った。さして強い言い方ではなく、至ってものしずかな調子であったが、二の句をつがせないきびしさがあって、皆すごすごとひきさがった。
食べものも、魚鳥の類は全然食べないではなかったが、好きではないようであった。
酒は非常に好きなようで、興に乗ずると、大杯で二升.も三升も飲むことがあったが、それもほとんどものを食わず、少量の味噌をなめながら飲んだ。そして、決して酔わなかつた。自若としていくらでも飲みつづけた。
要するに、清らかで、きびしくて、引きしまって、律僧のような日常であった。
決して負けず、戦えば必ず勝ったので、景虎の名声は大いに上った。 |
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