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          海音寺潮五郎−天と地と(上)

■父から愛されなかった虎千代

<本文から>
 けれども、母親の心ほど敏感なものはない。為景がこれほど注意深くふるまったにもかかわらず、いつか袈裟は夫が虎千代を愛していないことを知った。
 ある日、袈裟は言った。
 「殿様はお虎殿をいとしいと思っておいででございますか」
 ドキリとしながらも、為景は笑ってみせた。
 「どうしてそんなことをお言いなのだ」
 とっさには、いとしく思っているとは言えなかった。
 「どうしてって……いとしく思っていらっしゃるようには見えないのでございますもの」
 せい一ぱいの勇気をふるいおこしているのだろう、袈裟は青ざめていた。
 「わが子をいとしいと思わぬものがあろうか」
 はっきりと愛しているとは言えず、こんな言い方しか出来なかったのだが、これでも熱鉄を飲むほどの苦しい思いがあった。
 「世間では下の子ほど親はふびんがかかって、いとしいと申しますものを」
 袈裟はまた踏みこんで来る。今にも泣かんばかりの顔であった。あわれと思いながらも、またこんな答えでは決して袈裟が満足しないとわかっていながらも、為景にはこうしか言えない。
 「わしは老いた。いとしいと思う心はあっても、昔のようには可愛がれぬ。疲れるのでのう」
 為景はわれながらわが心がわからない。彼は自分を相当以上に狡猾な人間だと思っている。必要によってはずいぶん人をあざむきもし、おとしいれもし、裏切りもし、利用もするのだが、それを心苦しいと思ったことはない。心苦しく思うようなひよわい根性では、今の世では人の餌食となってしもうと思っている。だのに、このことだけは、心にもないことを言うのが苦しくてならない。それが不思議だ。
 (おれが袈裟を愛しているからだ)
 と思うのだが、それにしてもいぶかしい。愛する者にたいしては、その親、その兄弟、その召使う者までいとしくなるのが常であるのに、その生んだ子に、愛情どころか憎悪に近いものまで持つのは、ケタがはずれていると思わざるを得ない。
考えに考えた末、これは嫉妬だと気づいた。
 (おれは虎千代の父をにくんでいるのだ) 
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■天童和尚は仏道を説かず、四書の素読と手習いだけをきびしく仕込んだ

<本文から>
 和尚は新兵衛と顔を見合わせた。二人とも胸が熱くなり、目が濡れて来た。
 天童和尚と新兵衛との間にひそかな相談が行われた。
 和尚はいう。
 「わしはこれまで新しく出家する者を何十人となく見て来ている。幼少の頃から寺入りした者も二、三十人は見ている。それで、出家となってめでたく未遂げる者と未遂げぬ者とは、大体わかるつもりでいるが、虎千代様はとうてい未遂げるお人ではないように見える。しかしながら、殿のお心がああであるかぎり、今すぐにお返し申すことも出来ぬ。されば、わしは一応このままおあずかりはするが、是が非でも出家なさるようにとはつとめまい。学問手習いのために寺入りした者のつもりで、そうしたことをお仕込み申そう。もちろん、仏縁あって、御本人の心が動けば、それはそれで結構なことゆえ、よろこんで得度しょうが」
 新兵衛にとっては願ってもないことであった。
 「そうしていただけば、この上のよろこびはござらぬ。拙者はお虎様の博役となって、今日まで一年七、八カ月しかなりませぬが、日夜お側にいますので、ご性質はよく存じているつもりでござる。拙者の見るところでも、武士として得難いものがあらせられるようでござるが、出家にはおむきにならぬように存ずる。早くおふくろ様にお別れになったため、口にすることの出来ぬいろいろなことがあるのでござる」
 と、涙ながらに頼んだ。
 天童和尚はこの約束に忠実であった。仏道などはさらに説かず、四書の素読と手習いだけをきびしく仕込んだ。物覚えも、理解力もズバ抜けていた。わずかに二カ月で四書を暗諭するほどになった。
 この上の学問は、武将には不要な時代だ。
 夏のおわり、和尚は虎千代を城におくりかえした。
 「このちごは仏縁に薄い方でござる。とうてい世捨人となっておわるお人ではござりませぬ」
 というのが、その口上であった。
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■子供ながら定行に兵法を習った

<本文から>
 すると、景虎はいきなり言った。
 「そちに逢うてもろうたのは、そちの弟子にしてもらいたいからだ」
 子供らしい性急さもだが、意味もよくわからない。定行は微笑が出て来た。
 「弟子とは?」
 「その方に兵法を教えてもらいたい。そちも知っているであろうが、おれは父上のお気にかなわず、幼い時に坊主になれよと林泉寺に入れられた。林泉寺の和尚はおれを坊主には向かん人間と見たので、四書の素読と手習いだけを教えて、城にかえしてくれた。坊主にされなんだだけでもおれはうれしいと思うているが、父上はますますごきげんが悪うて、春日山にいることが出来んようになったので、ここにいる金津新兵衛が働いてくれて、栃尾の本庄が家で育った。そちも知っていることであろう」
 口惜しく、またいきどおろしいことであろうと思われるのだが、景虎は笑みをふくんで、さらさらとした調子だ。年にははるかにませていると思いながらも、定行は神妙な態度でこたえた。
 「存じ上げております」
 「本庄はいいやつで、まことに親切にしてくれた。しかし、何というても栃尾はいなかだ。おれは村の子供らと棒ぎれを振りまわしたり、水泳ぎしたり、狐わなをしかけたり、そんなことばかりしてくらした。そのため、せっかく林泉寺で教わった学問もあらかた忘れてしもうた。いくさの駆引き、陣法など、武将として心得ねばならぬことは、さらに知らん。ところが、そちは稀代の戦さ上手で、しかもそれは学問として学んだものじゃと聞く。おれをそちの弟子にして、兵法を教えてほしいのだ」
 どうせ兵を貸せぐらいのところに落ちつくのだと思っていたのに、少年の心は遠大なところにあった。意外であった。走行は自分の心が急速に傾くのを感じた。ほとんど涙さえ感じた。
 「仰せられること、よくわかりましてございます。失礼ながら、お年のほどでさほどのご思慮、感じ入りました。若年から好きな道とて手さぐりで兵法の書を読んでまいりましただけで、人に誇るほどの心得はございませんが、承知しているかぎりはお伝え申す でございましょう」
 走行は答えながら、次代の守護代はこれできまったと思っていた。
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