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<本文から> けれども、母親の心ほど敏感なものはない。為景がこれほど注意深くふるまったにもかかわらず、いつか袈裟は夫が虎千代を愛していないことを知った。
ある日、袈裟は言った。
「殿様はお虎殿をいとしいと思っておいででございますか」
ドキリとしながらも、為景は笑ってみせた。
「どうしてそんなことをお言いなのだ」
とっさには、いとしく思っているとは言えなかった。
「どうしてって……いとしく思っていらっしゃるようには見えないのでございますもの」
せい一ぱいの勇気をふるいおこしているのだろう、袈裟は青ざめていた。
「わが子をいとしいと思わぬものがあろうか」
はっきりと愛しているとは言えず、こんな言い方しか出来なかったのだが、これでも熱鉄を飲むほどの苦しい思いがあった。
「世間では下の子ほど親はふびんがかかって、いとしいと申しますものを」
袈裟はまた踏みこんで来る。今にも泣かんばかりの顔であった。あわれと思いながらも、またこんな答えでは決して袈裟が満足しないとわかっていながらも、為景にはこうしか言えない。
「わしは老いた。いとしいと思う心はあっても、昔のようには可愛がれぬ。疲れるのでのう」
為景はわれながらわが心がわからない。彼は自分を相当以上に狡猾な人間だと思っている。必要によってはずいぶん人をあざむきもし、おとしいれもし、裏切りもし、利用もするのだが、それを心苦しいと思ったことはない。心苦しく思うようなひよわい根性では、今の世では人の餌食となってしもうと思っている。だのに、このことだけは、心にもないことを言うのが苦しくてならない。それが不思議だ。
(おれが袈裟を愛しているからだ)
と思うのだが、それにしてもいぶかしい。愛する者にたいしては、その親、その兄弟、その召使う者までいとしくなるのが常であるのに、その生んだ子に、愛情どころか憎悪に近いものまで持つのは、ケタがはずれていると思わざるを得ない。
考えに考えた末、これは嫉妬だと気づいた。
(おれは虎千代の父をにくんでいるのだ) |
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