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          天璋院篤姫 下

■斉彬の計画に驚き血が引く

<本文から>
  幕政を一洗の必要、という言葉は篤姫も斉彬の口からしばしば聞いており、それに朝廷のご威光ご微弱にて、玉体お弱り遊ばされ、とも側近に洩らして落涙した詰も聞いたことがある。
 斉彬が琉球人を連れて上京する、という計画を立てたのは、おそらくずっと以前、世子の頃からかと思われるが、してみると新幕府樹立もかなり昔から斉彬が抱いていた遠大な構想だったのだと篤姫は思った。
 そのために、水戸家に協力を仰ぐ理由という以外、斉彬の思想と計画をよく理解できる慶喜を将軍につけておく必要があったかと考えられ、そう思うと篤姫は顔から一時に血の引く感じであった。
 慶喜を引見したときからずっと抱き続けていた疑問はこれで解け、そうすると篤姫は、家定が子を成す能力もないのを斉彬は悉く知っての上で、自分をこうして徳川家に送り込んだのだといまにしてうなずけるものであった。
 父上はこの私を、ご自分の謀叛を成功させるための手段として使われたに過ぎなかったと思うと、ぐうと歯を噛みしめていても鳴咽は洩れてくる。
 もし斉彬が壮健で延命し、朝廷の協力を得て新幕府を打ち立てた場合、無能な家定とその妻は逐われるに決まっており、そんなことを考えていると我が身のはかなさがしみじみと思われてくる。
 女のしあわせとは、御台所の地位を得ることではなく、日髪日化粧で給羅を飾ることでもなく、居ながらにして全国からの献上物の美味を味わえることでもなく、夫に愛されて子を儲け、仲むつまじく日を過すに越したことはない、といまは篤姫にもよく判るのであった。
 判りはしても、女が自分で自分の運命を変えることができないのも知っており、いまは悶え苦しみながら泣くより他はなかった。
 ずっとのちに篤姫が聞いたところによると、斉彬は臨終の前日、小納戸役山田壮右衛門と側室お須磨の方を呼び、二人に向って、
 「居間に座右に置きし文庫がある。これは大事な書付けである故、予が目を塞ぎたらば直ちに焼き捨てよ」
 と命じたという。
 二人はこれを、国父として斉彬に代った舎弟久光に相談せずして、その日の昼頃、遺言通りに庭内の茶屋浩然亭で焼き捨てたそうで、その煙を目撃したひともいたそうであった。文庫のなかには、簾翰のみならず、新幕府樹立に関して五侯とやりとりした書翰も収められていたものと見え、のち、明治となって島津家で発見されたのは、御製のみであったという。
 それにしても男とは何と傲慢なもの、人に優れた頭脳を持てばそれを楯に女を手段の一つとして使い、新政府樹立、とまでの野望を抱くか、と思うと、常凡の生きかたをしている人間のほうがはるかに誠実だという気がする。
 篤姫は、しかし斉彬の計画を最初から知らされていたとしても、どう逃れようもなかったことを思った。
 しょせん女は男の命ずるままにしか生きられぬもの、いまとなっては家定に強く慶喜を推親しなかったことが、せめてもの自分の給持だったのではなかったかと思われる。
 かつて、島津本家の養女と決まったとき、この秀明ならびなき英君を父と仰ぐことの栄誉と幸福に酔ったものであったが、いま天下を傭撤するのが可能な地位に就いてみれば、それがいかにも自分の若さというものであったとしみじみ思われるのであった。
 崇像崩れ去ったことは悲しく、篤姫は泣くまいと歯を噛んでいた自分をいまは許して幾島の前をもかまわず泣き、せめて涙を流すことで我が身のあてどなさを紛らわせたかった。
 人は稀なるご出世と自分をいい、日本の果ての小さな分家の娘からのし上って天下の内君となったのを羨むが、その実は養父の謀略の手段となったに過ぎず、また女性最高の地位たる御台所の座も、夫の生死さえ見舞うことができぬ不自由をかこつ身だとは判るまいと思うと、たとえよう為なく口惜しかった。 
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■篤姫は家定を一番理解していた

<本文から>
  将軍薨去の日から、幕府は棺に詰める朱が足りなくなるのを案じて市中の売買を禁じており、そうやって集めた朱は四斗四升四合四勺の量を、遺骸のかたわらにびっしりと隙間なく詰めてある。
 棺は桐のまさ目一寸板、高さ四尺五寸、横四尺はどの大きなもので、将軍遺骸には白無垢の上に直垂を着せ、太刀と烏帽子を納めてあるという。
 篤姫は、朱に埋もれた家定のなきがらを一目拝したいと思ったが、それは許されず、はるかな高さの祭壇に安置されたその棺に万感の思いを込めて合掌しただけであった。
 思えば結婚後一年と七カ月、おわたりも極めて間遠く、短い契りではあったけれども、篤姫は自分を、いちばんよく理解してくれたのはこの家定ではないかと思うのであった。
 幕閣、諸侯からは暗愚とそしられ、早くから退隠を工作されたひとだっただけに、この江戸城のなかで、最後まで信頼し心をひらいたのはこの自分にだけではなかったかと思うと、あれほど涙を見せまいと決心していても、咽喉もとへ熟いものがこみあげてくる。
 御灯しの向う、棺のまさ目を見上げていると、篤姫はそのなかに眠る家定が、たとえ毒殺であれ、いまは安らかな死の世界へ、嬉々として旅立ったことが思われてくるのであった。
 ここ半年ほどの幕閣内の多忙さは大奥にいてさえよく判り、老中の更迭、勅許を得ずしての通商条約の締結、継嗣の発表、押しかけ登城の諸大名の懲罰、といずれも家定が最後には断を下さねばならない問題だっただけにその心労いかばかり、弱い家定はいま、こうしたわずらわしさから解放され、安堵して死に身をゆだねられたのだと篤姫には判る。
 その夜篤姫は、いつものように上段のおじょう畳の上に敷いてあるお納戸縮緬の夜具に身を横たえようとして、突然、痩のような発作が襲って来、その場に身を丸め、声を挙げて泣いた。どんなに間遠ではあっても、将軍の夫がこの世に生きてあるのと、あの世に去ってしまったのではこんなにも違うものか、と思いながら、いま淋しさは骨身にこたえる思いであった。
 もし宿直の中臈いなくば、この場に転げまわり、夫の名を呼びながら狂乱するであろうに、と思いつつ、それを阻む御台所としての分別がいまはわずらわしかった。
 おいたわしいご生涯の上、それにつれていまだ娘の体のままの御台所としての自分、誰にこの怒りとやるせなさをぶっつければよいか、せめて夜なと思うさま振舞いたいのに、声を忍んで泣くばかりとはあまりにも情ないと思われるのであった。
 その夜篤姫は初鶴で家定の夢を見たが、」夢のなかの家定は何もいわず、いつもの泣きだしそうな表情をして御座の間に坐っているだけだったが、篤姫には家定が心のうちで、
 「御台よ、ひとりでさびしかろう」
といたわってくれているのを強く感じるのであった。
 この城に家来はあふれ、何を望んでもほとんど叶えられる天下一の武将でいて、内面将軍ほど孤独なものはなく、それはまた、御台所の場合にもいえることで、たった十九カ月の夫婦ではあっても、その孤独感故に二人は結ばれていたのだと篤姫は思う。
 指折ってみればすぐ判るほど、しとねをともにした数は少ない夫婦だったけれど、そのなかのいく夜かはしみじみと我が身をかこつ言葉を吐かれたのを、いまは悲しくもなつかしく思い返すのであった。
 それにしても、ただの一度も交わりの叶わなかった名ばかりの妻、それだけは決して口にできないだけに骨もきしむと思うほどの無念さであった。
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■和宮へのわだかまり

<本文から>
 あのまま薩摩を出でず、家格は低くても分家のひとつに嫁いでいれば、いま頃は子供の成人を楽しみつつ、おだやかな日々を送っていたかも知れぬと思うと、ふっと目頭が熱くなるような感じがある。
 どういう定めのもとに生れたのか、あの西の果ての地からこの江戸に来、生涯交わりの叶わなかった夫を持って大奥を統べる位置に昇り、そしていまは天皇の妹を嫁と呼ぶ立場になっている。
 ひとは女ながらもたぐい稀なるご出世といい、あやかりたいとまでに褒めそやしてくれるけれど、果してこれがしあわせかといえば、いまははっきり否、と答えたい気持になっている。
夫家定との、何もない表が明けるたび、ちょっぴり淋しいと思い、それをはしたない感情と自ら戒めてきたけれど、夫亡きあとまた出来事の多い年月を経てきて、いまは多少なりとも人の心が見える。
 大奥で暮すならば、嫁姑むつまじく助け合ってこそ女のしあわせといえるけれど、相手が皇妹の意識といつまでも実家を頼る気持を捨てない限り、もはやとうてい融和などという状態は望めぬ、と思うのであった。
 翌十二日、宮の使いとして土御門藤子が二の丸にやって来、宮の直筆の手紙と、重話め一箱を差出した。
 篤姫の心のうちには、宮への不満にも増してそのまわりのひとたち、とくに観行院、庭田典侍、土御門藤子などに対して腹に据えかねる思いがあり、いま自分の気持を露わにしてこちらへ移ってきたからには、もはや藤子の前でつくろうことはなかった。
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■家茂の突然の逝去

<本文から>
 城内の幕臣ただ呆然、折しも長州征伐の戦局は幕府に不利、日に日に悪化していて、誰もなすすべもなく、言葉も出ない有様であった。この日、広い大坂城内は寂として声なく螢域さながらの様相、詰めている幕臣一同一人の例外もなく声を忍んですすり泣いた。何という悲愴、何という暗黒、天下の衆望を担って将軍に就任した健康な光輝に充ちた二十一歳という年で若者が、あえなく落命するとはいったい誰が思いみたであろうか。
 大坂からの早馬が江戸城に到着したのは七月二十五日のこと、知らせを聞いた大奥ばかりでなく、表方も含めて江戸城全体、哀泣の声に充ちた。江戸城内も大坂城に劣らず悲嘆のどん底に沈み、その夜は至るところで鬼火の燃えるのが見られたという。
 篤姫は泣きしずむ女中たちを眺めながら、こんなことは到底信じられぬ、と思った。
 若く凛々しく、陣羽織を着て勇ましく出発したあの家茂が、戦場でなく病いで死ぬなどとは到底信じられぬ、と思った。
まだ上さまはおかくれ遊ばしてはおらぬ、と口に出したいい、そして心の中で、ご遺体をこの目で確かめるまで泣きはせぬ、と固く思うのであった。昔、菊本は、今和泉の大事のとき、女子は日頃は目立たずとも、いざというときにこそ力の出るもの、とさとし、お幸の方の底力を話してくれたが、篤姫はいま自分が奮い立たねばこの徳川家はどうなる、と我と我が体に鞭を打つ思いであった。
 胸のなかにはさまざまの思いがあり、かつて家定薨去のあと、御台所の自分に知らされたは一カ月のちの話、しかも亡骸に対面は許されず、はるかに下段からその棺を拝しただけだったことから、毒殺の疑惑に取憑かれた苦しみなど、いまあざやかに思い出す。
 大坂へおいで遊ばし、頭を悩ます政情ではあっても、また多少のレウマチスか脚気病いは患われても、まさか一命を落すご病状ではないはず、と篤姫が唇を噛んでしきりに思うのは、またもや常ならぬ死のことであった。
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■大奥死守の決意

<本文から>
 篤姫は、中藤が髪を結い上げるのを待って打掛けを着て正座し、
「滝山は、いまから私が申述べる言葉を一言洩らさず表方に伝えよ」
 といい渡し、
「まず、ただいまは天下の大事、お家の大事という事情にあり、この城内も日頃に較べれば手薄という有様なれば、これ以上の詰問はさし控えるが、薩藩よりの私の進退伺いについて、何故に直接当方の意向を尋ねる必要がある。
 女が一旦嫁したからには、その嫁ぎ先の家が即ち終焉の地であって、たとえ実家と婚家先が戦火を交える如きことに相成ろうとも、この儀は未来永劫変りはせぬ。これが真の女の道であることはいまさら申すまでもないことじゃ。
 私がこの徳川家に嫁してより今日まで満十一年、その間には上さま薨去遊ばし、薩摩藩にても我が父斉彬どのを失ってお代替りもあり、そしてまた薩藩の近年の動きには当家の方針と相反するものが多々あるは私も十分承知している。
 聞くところによると、薩藩は討幕の密勅を頂いて兵を起しいるとか、しかしそれがいまの私に直接何の関わりがあろうか。
 徳川家の人間は、いま危急存亡のときに当たり、雑念を払って一筋にお家を守らねばならぬ。恐れ多くも神君が将軍職にお就き遊ばしてより二百六十余年、この栄ある徳川家をいかなることがあっても傾かせてはならぬのじゃ。
 よいか、滝山。私がこの大奥を去れば誰があとを守ろうぞ。家の名誉と、大奥三千人の女中たちを、私はここで死守しなければならぬ。
 薩藩が私をたって連れ戻そうとするならば私はこの場において自害する。表方も、さような自明の理を、わざわざ伺いに来る暇あれば、来る戦いに備えて戦力の充実をはかるがよい」
 朗々と告げる篤姫の前で、滝山はいつのまにかひれ伏し、涙を流しているのであった。
 滝山が涙を拭い、表へその旨を告げに去ったあと、篤姫は朝食の膳の前でしばらく坐ったまま箸も取らなかった。
 いま自分が告げたことは、これだけのことに右往左往する表方の役人たちを叱咤する言葉だったけれど、その実は幾重へだてた居間で京に戻るための荷ごしらえに余念のない宮の胸に届けとばかりに叫んだことだったかも知れないと思う。
 たしかに満十一年、この大奥に住まっていれば大奥死守の自覚は固まってはくるが、しかし一日もその覚悟が揺るがなかったといえばこれは真実とはいえぬ。
 篤姫とて家定亡きあと、本寿院実成院の年長者を抱え、幼い将軍を守りたててゆかねばならぬ勤めの垂さにときに耐え兼ね、身分など要らぬ、故郷の今和泉家の母お辛の方のもとへ帰りたい、さすればどんなにか安楽の毎日であろう、と考えたこともないではない。
 が、現実には、いざとなれば取乱して泣くばかりの大奥女中を一手に統べる立場に立たされており、加えて、婚家先を去ることの己れに恥じる思いでそれを戒めて来ているだけに、いまその気持を宮に訴えたいと考えることしきりであった。
 宮は、人質にとられるのを恐れ、戦乱に巻き込まれぬよう還京の準備を進めているが、身分と事情こそ多少違え、篤姫の場合もこれと酷似しており、幕府が薩藩と戦火の火蓋を切ったとき、篤姫は人質となり得る立場でもある。
 かつての戦国時代、男たちの戦略として結婚させられた女たちを見ても、嫁ぎ先と運命をともにした者に篤姫は共感をおぼえるが、一人だけ実家に逃げ帰って命を全うした者に対してはきびしい批判を抱くのも、いまの自分の立場からして当然のことであったろう。
 皇妹ではあっても、仮りにも結婚して徳川家の者となった者が戦雲急とみるや、一路実家へ帰りたがる様子を見るにつけ、篤姫の大奥を守る思いがますます固まるのも、いわば意地でもあったろうか。
付 ここは姑として、自分の選ぶ道を嫁に見せておきたい気持ちもないでもないが、さきほども披歴したとおり、いまの篤姫がここを去ったらあとはどうなる、という思いも強く、そしてまたさらには、心ならずも譲り渡した将軍の座を、亀之助の手に取戻すのを見届けるまではここを動かれぬという、歯をくいしばっての報復の感情もあった。
 薩藩が連れ戻そうとするならば、自害してでもここで果てる、と言明した篤姫の覚悟はその日のうちに城内に広まり、それは大奥のみならず、この情勢におぼつかない日をすごしている表方の役人たちに活を入れた感がある。
 薩藩も、当主忠義の率いる軍勢のなかには、篤姫の兄忠敬の養子忠飲も手勢をひきつれて加わっていると考えられるが、いまはそれより、傾きかけたこの徳川家の大所帯を支えるのが自分の役割だと篤姫は思うより他なかった。
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■宮と篤姫の嘆願書は官軍の態度を軟化、篤姫は覚悟を決める

<本文から>
 宮と篤姫はさらに追いかけて使者にそれぞれ玉島と梅ケ井を出し、嘆願書を先鋒総督に手渡したが、こういう後宮女性の活躍は官軍の態度軟化に大いに影響、強硬派の西郷でさえ徳川一門の安泰には同意を示すようになったのである。
 これよりさき、鉄舟と西郷の会見の際、西郷は慶喜謝罪の七条件を出し、鉄舟は慶喜を備前藩に移すことだけに反対、他は了承して徳川家存続を乞うた。
 一日一日、徳川家と江戸城の運命が揺れ動きながら定まってゆく方向のなかで、篤姫の心の底にはやはり渦巻く思いがあり、それは、戦火を交えることだけはとどめても、なお徳川に往年の威信を取戻したい願望であった。のちに思えば、これは嫁でありながら宮さま、とあがめねばならなかった宮に対する一種の意地であったかもしれず、徳川にとつて代り天下をおさめようとする朝廷への、誰にも明かせぬ反目の思いかも知れなかった。
 十五日の総攻撃については、大坂落城の際の千姫のように、官軍は宮を、薩藩は篤姫を、その直前ひそかに救出するのだという噂も立っているなかで、篤姫はひとり、覚悟を定めて落着き払っている。
 いつのまにやら篤姫は死生を超えたような感じがあり、ここで薩藩の大砲に撃たれて死ぬもよし、などと思いつつ、しかしかたわらでは、おめおめとこの城を破壊されてなるものか、と唇を噛む思いがある。表ではいまだ迎撃の準備は進捗せず、相かわらずの右往左往を、手ぬるいこと、と眺めており、それは決して口に出せないだけに、いきおい表方役に対して不機嫌になっている自分を感じる。
 長い平和の時代を生きて来て、武家の女といえども戦いの実際は如何なるものか誰も判らず、それについて滝山はしきりに表方へかけあい、万一総攻撃となった場合、大奥三千人の女中たちはいずれへ避難すべきか、また天埠院及び宮、本寿院実成院のお四方はいずかたへ移し参らすや、と指示を仰ぐのに、交渉のたびに表の責任者が替ったり、「いまだ聞いてはおりませぬ」と逃げられたりして不安は増すばかりであった。ようやく得た命令は、「宮と三院の方々は紅葉山へご参集を」という、まるで砲撃に身をさらすに等しい場所の指定で、滝山はそれを受けた途端、危く気絶するほどに腹を立てたという話を篤姫は聞いた。
 滝山が口惜し涙にくれながらかきくどくには、
 「本来ならば、早々とご避難先を調査し、お心を安んじ奉るのが用人たちのお役目でございますのに、いまだに手ぬるきは、戦いとなればまっ先におのれら遁走いたす心づもりかも知れませぬ」
 といまは繕う言葉なく非難し、そして、
 「表方は、この期に及んであまりにも天璋院さま宮さまの、女の力を頼り過ぎます。徳川も二百六十年余り経てば武士もかくなる腰抜けばかりかと権現さまは地下にていかばかりのお嘆きでございましょうか」
 と頼るに足りぬ実状を訴えてもはや悍らなかった。
 十四日の昼すぎ、篤姫はさと姫を抱き、久しぶりに吹上の庭を歩いた。
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■篤姫だからこそ難題を乗り越えられた

<本文から>
 心の底ではいつも、近づいてくる官軍の勝利を謳歌する声を聞いており、しかもその先頭に立つは薩州、指揮を取るは血のつながった分家の士、と思うと胸がしぼられるようなつらさをいつも感じ取ってきたものであった。
 我が徳川家を滅ぼす敵はいかにも憎いが、その敵は我が身内と思うと無理にも我が方の勝利を念じて、自分の気持を引き立たせる必要もあったのだと思う。
 それに、江戸城と同じ敷地内のこの一橋邸へ移った夜から、篤姫はずっと聞耳を立てており、それは遠く隔たった城内の様子を、少しでも早く感得したいためであった。
 が、ついさき頃まで人が溢れていた江戸城の方向からはついぞ何のもの音も伝わってはこず、ただ江戸城内からつい近くまで流れているやり水のなかで、一晩中水鶏の鳴いているのを聞くばかリであった。
 この夜からすでに篤姫の胸中は絶望感に充たされており、翌十一日の夜、城明け渡しが終ったらしい様子を側用人から聞いた篤姫は、このときも何もいわずうなずいただけだったが、その夜の寝床のなかでは声を忍んで泣いた。声を立てれば宿直の者にさとられると思い、寝衣の袖を噛んで耐えていたけれど、涙はあとからあとからとめどもなかった。
 言葉を超えて悲しく、それは自分存生中に徳川家の崩壊を見た申しわけなさと、男子になりかわったつもりで今日まで気を張り続けて来たことに対し、何の報いも得られなかったことの空しさ口惜しさとが終いまざった熟い涙であった。国の果て薩摩の分家から出でて将軍の室となり、夫婦の交わりもかなわぬ夫に仕えてひたすら堅忍して来たのも、ただ一筋、穂川家のためを思ってのことだったのに、その結果はこれだったかと思うと、泣いても泣いても泣ききれぬ思いがする。
 いましみじみと思うのは、いずくんぞ古人に類して千載青史に列するを得ん、の頼山陽の詩に刺激を受けた自分のことで、顧ればたしかに千載に残る地位には坐ったものの、同時に落城の悲運をも青史に列せられるのは口惜しかった。
 考えてみれば、篤姫が徳川家の人間となってから経たあいだの事の多さは人の二生も三生も、と思われるほどで、それだけに長い長い年月だったと感じる。
 入輿以来、継嗣の問題で気を張り続け、夫を失い、とくに皇妹を嫁に迎えてのちは安らかな日とてない明け暮れで、そしてとうとう居城を敵の手に渡し、こんな仮宿でその報らせを聞く境涯になってしまった。
 疲れ果て、気力も萎える思いもするが、しかし篤姫は涙を拭いながらも、自分のいまおかれている立場をやはり考えずにはいられなかった。もし篤姫が、心弱く己れの意志を持たない人間であったら、いままでに二度、薩藩から出された内伺いに従って薩摩へ帰っていたかもしれず、ここに止どまって大奥を守ったのは、ひとつには亡き家定の意志を実現するためであったということもある。
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■天璋院薨去

<本文から>
 東京の島津家ともいまは気軽く親密なゆききをしており、ときどき向うからは薩摩の物産を届けてくれたりし、長いあいだ大奥では下魚として忌みものとされていたキビナゴの干魚など噛みしめ、その香りをなつかしんだりもする。
 泰子は幸いなことにまもなく懐妊したが、来年三月の出産と聞いて篤姫は安心し、第一子の誕生をみたち、それこそ三十年ぶりに薩摩を訪問しようとたのしみにしていたのに、その年の秋、立ち上った拍子に居間で倒れ、昏睡状態に陥った。
 家達をはじめ一族の見守るなか、篤姫が四十八歳の多難な生涯を閉じたのは十一月二十日であった。
 家運は家令松平確堂を呼び、天埠院さまご葬送の儀は、現役御台所としての手順を踏み参らせよと命じ、それによって遺骸へは総自任立の装束、髪はおすべらかし、女中二人が亡骸を立たせて曲泉に靡かけさせ、一門のひとびとと水盃を交わした。誰も彼もその蒼ざめた遺骸の裾に取りすがって泣き、とりわけ重野は号泣しながら、心のうちで、御台所としてのおん扱いは嬉しけれど、天埠院さまはいまだに娘のままのお清の体に在らせられる、と思い、この残酷さ、この不合理と引き換えに、無限の栄誉を以て報い奉らなければと一人歯ぎしりするのであった。
 天璋院薨去と聞いて弔問に訪れるひとの数はまことにおびただしく、徳川一門はいうに及ばず、出入りの商人までその徳を慕って参集し、天埠院というひとの影響力を世間にあらためて認めさせたという。
 遺骸は上野寛永寺、夫家定とおなじ墓所に葬られたが、天璋院亡きあとしばらくのあいだ、千駄ヶ谷の邸は歴代将軍の服喪のときよりももっとさびしかったといわれる。
 このあと家達は篤姫の教えをよく守り、翌年生れた長男の家正には島津忠義九女の正子をめとり、以下、綾子は松平家、綴子は鷹司家、繁子は松平家に嫁がせ決して慶喜との交流はしなかった。
 もし徳川家に天埠院なかりせば、家は瓦解のさい滅亡し果てていたにちがいない、というのが家達の口ぐせで、一周忌には百号の遺影を油で描かせ、それを居間にかかげて子供たちとともに朝夕礼拝を怠らなかった。
 篤姫は、家達の子供たちの顔をづいに見ることはなかったが、子供たちはその命日をとってこの邸で二十日さまと呼ばれる亡き天埠院を、ずっとのちのちまで神の如く敬ったという。
 篤姫が亡くなった翌明治十七年、華族令が定められ、日本の華族に公侯拍子男の五爵が贈られたが、徳川宗家は筆頭の公爵を授けられた。
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