|
<本文から>
幕政を一洗の必要、という言葉は篤姫も斉彬の口からしばしば聞いており、それに朝廷のご威光ご微弱にて、玉体お弱り遊ばされ、とも側近に洩らして落涙した詰も聞いたことがある。
斉彬が琉球人を連れて上京する、という計画を立てたのは、おそらくずっと以前、世子の頃からかと思われるが、してみると新幕府樹立もかなり昔から斉彬が抱いていた遠大な構想だったのだと篤姫は思った。
そのために、水戸家に協力を仰ぐ理由という以外、斉彬の思想と計画をよく理解できる慶喜を将軍につけておく必要があったかと考えられ、そう思うと篤姫は顔から一時に血の引く感じであった。
慶喜を引見したときからずっと抱き続けていた疑問はこれで解け、そうすると篤姫は、家定が子を成す能力もないのを斉彬は悉く知っての上で、自分をこうして徳川家に送り込んだのだといまにしてうなずけるものであった。
父上はこの私を、ご自分の謀叛を成功させるための手段として使われたに過ぎなかったと思うと、ぐうと歯を噛みしめていても鳴咽は洩れてくる。
もし斉彬が壮健で延命し、朝廷の協力を得て新幕府を打ち立てた場合、無能な家定とその妻は逐われるに決まっており、そんなことを考えていると我が身のはかなさがしみじみと思われてくる。
女のしあわせとは、御台所の地位を得ることではなく、日髪日化粧で給羅を飾ることでもなく、居ながらにして全国からの献上物の美味を味わえることでもなく、夫に愛されて子を儲け、仲むつまじく日を過すに越したことはない、といまは篤姫にもよく判るのであった。
判りはしても、女が自分で自分の運命を変えることができないのも知っており、いまは悶え苦しみながら泣くより他はなかった。
ずっとのちに篤姫が聞いたところによると、斉彬は臨終の前日、小納戸役山田壮右衛門と側室お須磨の方を呼び、二人に向って、
「居間に座右に置きし文庫がある。これは大事な書付けである故、予が目を塞ぎたらば直ちに焼き捨てよ」
と命じたという。
二人はこれを、国父として斉彬に代った舎弟久光に相談せずして、その日の昼頃、遺言通りに庭内の茶屋浩然亭で焼き捨てたそうで、その煙を目撃したひともいたそうであった。文庫のなかには、簾翰のみならず、新幕府樹立に関して五侯とやりとりした書翰も収められていたものと見え、のち、明治となって島津家で発見されたのは、御製のみであったという。
それにしても男とは何と傲慢なもの、人に優れた頭脳を持てばそれを楯に女を手段の一つとして使い、新政府樹立、とまでの野望を抱くか、と思うと、常凡の生きかたをしている人間のほうがはるかに誠実だという気がする。
篤姫は、しかし斉彬の計画を最初から知らされていたとしても、どう逃れようもなかったことを思った。
しょせん女は男の命ずるままにしか生きられぬもの、いまとなっては家定に強く慶喜を推親しなかったことが、せめてもの自分の給持だったのではなかったかと思われる。
かつて、島津本家の養女と決まったとき、この秀明ならびなき英君を父と仰ぐことの栄誉と幸福に酔ったものであったが、いま天下を傭撤するのが可能な地位に就いてみれば、それがいかにも自分の若さというものであったとしみじみ思われるのであった。
崇像崩れ去ったことは悲しく、篤姫は泣くまいと歯を噛んでいた自分をいまは許して幾島の前をもかまわず泣き、せめて涙を流すことで我が身のあてどなさを紛らわせたかった。
人は稀なるご出世と自分をいい、日本の果ての小さな分家の娘からのし上って天下の内君となったのを羨むが、その実は養父の謀略の手段となったに過ぎず、また女性最高の地位たる御台所の座も、夫の生死さえ見舞うことができぬ不自由をかこつ身だとは判るまいと思うと、たとえよう為なく口惜しかった。 |
|